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おおぐし じゅんじ

大串 潤児

日本史 准教授

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こんなことしています(研究) サークル誌をもとめて

対馬紀行 2012・春 その2

軍の街 雞知(けち)

対馬要塞重砲兵連隊碑

  2012年3月24日、風はまだ強いけれども昨日の「春の嵐」に比べれば上天気です。ホテルで元自衛官の小松さんと待ち合わせ。今日、1日は小松津代志さんのご案内によって「軍隊と地域社会 対馬」というテーマでいくつかの砲台や戦争関連史跡をめぐります。  対馬は近代にはいり竹敷に海軍港が設けられ、また対馬警備隊が設置されます。1887年頃からは対馬要塞の建設工事が開始され、さらに要塞重砲兵連隊もおかれ全島要塞地帯となっていきます。戦時中の対馬要塞については大西巨人『神聖喜劇』が著名ですが、「軍隊と地域社会」というテーマに即しても全島要塞地帯の対馬はたいへん興味ある地域です。  まずは厳原港裏山にある陸軍墓地から巡見を開始しました。もと幕府遠見番所であった土地に明治6年からの死者の墓地です。日清戦争時の対馬警備隊病死者のものも移されてここにあります。   雞知(けち)は厳原からクルマで10分程度の市街地。ここには1897(明治30)年対馬警備隊本部が、1900(明治33)年には対馬砲兵大隊の本部が厳原から移ってきました。国道沿いには旧将校官舎や下士官官舎の一部が残ってるのが見えます。中学校には対馬要塞重砲兵連隊正門門柱が一ひっそりと建っています。重砲兵連隊の碑文も近くにあります。 「ハト(伝書鳩)」を扱う店が「ポッポ屋」として現在もその名前で呼ばれているそうです。料亭や遊郭は厳原にあったそうですが、この雞知(けち)の街も軍隊が移駐してくることで商店街を形成していったといいます。  近くの小山には忠霊塔も残り、ロシア軍人の墓もあります。

姫神山砲台

手前と奥の平面部に砲座跡がある

  海軍によって開削された万関瀬戸(水道)により、かつて一つの島であった対馬は上島・下島に分割されました。西側の浅茅湾は竹敷要港部で、海軍の主要基地です。万関瀬戸をはさんで東側は三浦湾。この湾の入り口を囲むように黒島と緒方半島があります。ここには、日露戦争の際、三浦湾に敵艦が進入することを想定して多くの火器が集中的に配置されました。その一つ「姫神山砲台」を訪ねます。   緒方の集落からさらに山道を登り、要塞砲台にいたる第1門の空き地までクルマで上ります(かなりの山道です)。そこから、さらに徒歩で第2門を経て、姫神山砲台に至ります。   28センチ榴弾砲をすえた6ヶ砲座跡、観測所、掩蔽部のレンガ建造物などとてもよいかたたちで保存されており(といっても崩落は進んでいるそうですが)、明治期の要塞のすがたがよくわかるものです。   豊玉町で県道39号線をとり、東海岸を走ります。目的地は北の港町・比田勝。途中、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫版1984)で著名な「千尋藻」(ちろも)の浦を訪ねます。小松さんは「宮本常一の足跡を巡る会」のメンバーでもあります。途中、宮本さんにまつわる話を聞かせてもらいました。   

対馬北端へ

うすぼんやりと釜山の山々が見えます。

  比田勝港は厳原につぐ港町。韓国・釜山への航路と博多へのフェリーも出ています。JRが経営する釜山行き便・受付の女性に聞いたところ、200をこえる座席はいつも満席だそうです。日本海海戦(対馬沖海戦)の際にはロシア人が救援をもとめて比田勝港から東側の殿崎近辺に上陸しています。東郷平八郎の揮毫によって日本海海戦記念碑が建立され、5月7日には村民が集まり、慰霊祭・運動会・芝居が行われていたといいます。   殿崎では、2005年、「日本海(対馬沖)海戦」100周年を記念して日本・ロシアの合同慰霊祭が行われ、平和友好の碑を建立、「日露友好の丘」と命名されました。詳しい経過は小松さんの著書・『対馬のこころ』完結編2010年に記されています。   第一次大戦後の砲台である豊(とよ)の砲台跡(軍縮により航空母艦への改装が行われた巡洋戦艦赤城の砲塔がすえられたという)を見学。ここはもうすでに対馬上島の北端部にあたります。初夏には美しい「ヒトツバタゴ」の群落地である鰐浦の集落を眼下に望む高台には「韓国展望所」があります。鰐浦は「狭い谷間にある村であるが、昔はここから朝鮮の釜山へ連絡の船が出ていた。その船を飛船(ひせん)といった。小さい櫓船で五挺櫓をたてるようになっており、その船で釜山まで八時間でわたった」といいます(宮本常一『私の日本地図 15 壱岐・対馬紀行』未来社2009)。  この季節、海粟(うに)島の向こうに韓国・釜山が見えることはなかなかないそうです。私が行ったとき、うすぼんやりでしたが、釜山を望むことが出来ました(予備調査でお世話になった近世史の木村直也さんには「ラッキーでしたね」と言われました。本当です)。   もうすでに陽が西に傾いています。佐須奈を経て厳原に向かいます。バイパス道路(国号18号線)の開通によって島内の交通事情は格段によくなったそうです。離島振興法にともなう社会基盤整備や開発の問題はまた別の対馬の戦後史として考えられねばならないでしょう。佐護・志多留・伊奈といった宮本常一が歩いた道は今回は訪ねることは出来ませんでした。わずか1日でしたが、「要塞島対馬」の姿を垣間見ることが出来ました。小松さんに御礼申し上げます。

無名通信

無名通信

  2012年3月25日、ぬけるような晴天。対馬空港を午前中の便で発ち、お昼には福岡空港に到着。羽田まで帰る便をまつあいだ、福岡市総合図書館に向かいました。サークル誌『無名通信』を調査するためです(ちなみに、国立歴史民俗博物館第6展示室では最後のコーナー、「忘却のなかの戦後」、炭鉱をめぐる表現活動の場所に展示されています)。   周知のように『無名通信』は『サークル村』にも参加する女性たちによって作られたサークル誌です。森崎和江『闘いとエロス』(三一書房1970)にも叙述があり、松原新一『幻視のコンミューン』(創言社2001)に総目次が掲載されていますが、まとまってみる機会を長らくもてないでいました。「境界」の島を訪ねたこの旅の終局で、『無名通信』を読む時間を持つことができたことは幸いでした。  今回の旅でもまたまだ多くの「無名者」の声にふれることは出来ませんでした。朝鮮戦争下の対馬をめぐる人びと、特に女性たち。韓国-対馬-福岡と旅して最後に『無名通信』に出会えたことは、感慨深いものがありました。宮本の描いた「寄り合い」、そして「日本人」の意味については再検討の機運があります。宮本常一『忘れられた日本人』、白鳥邦夫『無名の日本人』、そして『無名通信』。「無名」「忘れられた」という思想と「日本人」の関係、サークル論の大きなテーマでもあります。 ※今回の調査にあたっては国立歴史民俗博物館共同研究「近現代展示における歴史叙述の検証と再構築」からの援助を受けました。また木村直也さんには対馬での調査地について貴重な助言を得ました。対馬では、小松津代志さん、対馬市立つしま図書館の皆様、対馬新聞社の皆様、対馬地区労働平和センターの皆様、に大変お世話になりました。ありがとうございます。   

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