教員紹介

おおぐし じゅんじ

大串 潤児

歴史学 教授

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こんなことしています(研究)

対馬紀行 2012・春 その1

戦中戦後の境界

空港から-対馬の山なみ

  戦中戦後、日本列島と朝鮮半島のあいだに存在した対馬という地域社会に生きる人びとはどのような経験をしたのだろうか?今回の対馬行きはこうした私自身の問題関心からのものであり、同時に国立歴史民俗博物館における現代史展示をより良くするための基礎調査でもあります。   私は、国立歴史民俗博物館の共同研究「20世紀における戦争」に参加していましたが、第6室(現代史)展示Open以後は新たな共同研究「近現代展示における歴史叙述の検証と再構築」に加わりました。そこには植民地研究や在日韓国・朝鮮人史研究の方々も加わり、「20世紀における戦争」で提起した問題をより広い文脈で議論していくことになりました(その後、2011年3月11日,東日本大震災を受け止めるため共同研究も再編されました)。特に「20世紀における戦争」で提起された①軍隊と地域社会,②戦争と地方都市のモダニズム,③「外地」という視座,という問題を新たな共同研究メンバーでふかめることが課題ともなっています(「特集 戦争そして高度成長」『歴博』№169、2011年11月20日を参照)。2009年に開催された歴博フォーラムにおいても、石原昌家さん、屋嘉比収さんらのお仕事を紹介するかたちで大日本帝国崩壊後の朝鮮半島―対馬、沖縄-台湾間の人びとの交流経験と占領期における新たな「国境」線の浮上といった論点を示唆しておきました(大串「占領期の民衆生活」)。   1950,51年に実際された九(八)学会連合の対馬調査や宮本常一の仕事は別として、戦中戦後の対馬研究は沖縄研究に比べてあまり知られておらず、今回の予備調査となりました。私も、近世史の方から調査のご案内を受けたのですが、最近では坂野徹「「寄り合い」と朝鮮戦争」(『現代思想』第39巻第15号、2011年11月臨時増刊号「総特集 宮本常一)が刺激的な議論を提出しています。

対馬へ

厳原の港

 2012年3月22日、福岡空港をたった飛行機は40分程度の飛行で対馬空港に到着しました。あいにくの雨です。クルマで厳原へ向かいます。山をくりぬいてバイパスが通っていましたが、せっかくなので海岸の浦々をめぐる旧道を行きました。ホテルに荷物を解いて、厳原の南、久田の「お船江」(おふなえ)跡を見学。対馬藩御用船の船だまりです。   厳原の町は港から山側に細長く広がった城下町。街中を散策すればすぐに「武家屋敷石垣」が隋所に見つかります。そこここに「朝鮮通信使 接待所」跡の石碑もあります。  港から「川端通り」を散歩しながら、厳原では現在1軒になってしまった本屋さんで対馬関係の文献を購入しました。  

厳原調査

対馬歴史民俗資料館前の通信使碑

  2012年3月23日、雨。図書館が開くまでクルマで30分ほどの上見坂公園に向かい、上見坂の砲台跡を見学(上見坂堡塁跡)。濃霧のなかでしたが、韓国からの観光客にまじっての砲台跡見学。   厳原に戻り図書館で関連文献の調査。『厳原町詩』『豊玉町誌』など。『上対馬町誌』には朝鮮戦争下対馬島の興味深い記述がありました。上対馬町は対馬東北部の主要港・比田勝港があります。戦争末期のこの地域の様子については渡邊博至『硝煙の北対馬』(清文堂1995)が「駐屯した朝鮮兵隊」の記述も含んでいて興味深い記録です。   『上対馬町誌』によると、旧豊崎町役場書類には『昭和25年7月 情報簿 情報部』という綴りがあるそうで、1950年7月3日から8月1日までのこの地域の「町内情報」が記載されているといいます。内容は例えば以下のようです。  7月5日 午後8時頃鰐浦海粟島に米軍施設の工事用品及米軍約60名を積載した船舶到着す。  7月9日 午後6時、3発の砲声を聞き、機関銃の音を聞いた。暫くして玖須部落・玖須茂三造船所前の海中及霹靂神社の東方海岸及山中に多数の銃弾及弾帯が数個飛行機より落下した。  7月15日 早朝、泉小櫃浦に密航朝鮮人入港・(12,3名、内女3名)、附近山中に隠れたが、警察に追跡逮捕された。警察の言によれば一般密航者の如し。 (以上、『上対馬町誌』314頁)   図書館での紹介をうけ近くの対馬新聞社を訪ねました。対馬新聞社長でもあった斉藤隼人の『戦後対馬三十年史』は「対馬新聞」記事を集成して書かれた本です。この本の頂にいったのですが、対馬新聞社には1946年創刊の「対馬新聞」が創刊号から保存されていることが確認でき、大きな成果となりました。社員の皆様にはたいへんよくし下さいました。また、「対馬新聞」創刊前に斉藤隼人が発行されていた「城下町新報」のゆくえを探しているとの「宿題」もいただきました。  昼飯は対馬の名物・さつまいもで作った麺料理「ろくべえ」を美味しくいただきました。しかし午後から予定していた対馬歴史民俗資料館では、約束の方にお会いすることができず、館内を見学してからぽっかりと時間が空いてしまいました。   対馬地区平和労働センターを訪ね、戦後対馬の平和運動・労働運動関係の記録を調査しました。旧対馬地区労の記録を確認するとともに、済州島4・3事件と対馬の関係や核廃棄物問題など、戦後対馬のかかえる問題について貴重なお話を伺うことが出来ました。突然の訪問にも快く応じてくださった関係各位に感謝します。

対馬西海岸へ

小茂田浜神社の忠霊塔

  あいにく雨も本降りになってしまいましたが、対馬上島をめざし国道18号線を北に向かいます。   浅茅湾を左手に見て大船越・万関橋(旧日本海軍が開削した水道にかかる)・小船越・賀谷・豊玉と過ぎ、「和多都美神社」(わたづみ神社)に詣でました。「豊玉姫命」と「海彦山彦」神話で知られる「彦火々出見尊」を祀る海の神社です。   雞知(けち)の街で県道24号線を西におれ、対馬下島西海岸をドライブします。道沿いには 旧海軍の根拠地・竹敷や「白村江の戦い」の後に築かれた「金田城」(かなたのき)跡もあります。今里・阿連(あれ)と海沿いの山道と浦々をめぐって小茂田に着きます。  小茂田はモンゴル襲来(元寇)の古戦場。中世史のみならず、モンゴル襲来の記憶が、この地域でどのように伝承されてきたのか、現代史にとっても重要な場所です。でも、このころから急に雨脚が強くなりました。かつての銀山跡(樫根)を経て、いそいで厳原に戻ります(この地域については鎌田慧『ドキュメント 隠された公害』講談社文庫版1991、もあります)。

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