教員紹介

おおぐし じゅんじ

大串 潤児

歴史学 教授

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ゼミの活動

2011夏 飛騨・富山合宿

高山の夜

庶民を裁く「御白洲」-実演してもらいました。

 2011年9月15日から17日にかけて日本近現代史ゼミ2011・夏合宿が行われました。  ぬけるような青空のなか、目的地、飛騨高山をめざし、松本から上高地、安房峠を越えていきます。  1日目は飛騨高山陣屋を見学しました。1969年まで岐阜県分庁舎として利用されていたこの建物は、現在、保存公開され、米蔵は博物館となっています。幕府天領の代官所でもあり、かつては松本に県庁がおかれた筑摩県の飛騨側の庁舎として利用されていました。  畳の仕様、玄関口、「御白洲」の様式(特に敷砂)、すべてに中央派遣の官吏と地域雇用の管理との格差、「身分制」がよくわかる建物となっていました。  高山市内を散策し、夜はゼミナール:「M.ハート/A.ネグリ『帝国』を読む」で勉強、おわってビンゴで楽しみました。

鉱山の社会史へ

神岡鉱山 遠景

 16日、岐阜・富山県境の神岡鉱山を目指します。かつて亜鉛・鉛の生産で著名であった三井金属神岡鉱山です。事業所の見学はできませんでしたので「鉱山資料館」で鉱山の概要を学びます。館内で上映されていた記録映画(PR映画)は岩波映画の作品でした。  合宿前には不勉強ながら知りませんでしたが、金賛汀「戦時下在日朝鮮人の反日運動-三井神岡鉱山の強制連行者の闘争を中心に」(『歴史公論』№57、1980年8月)がこの鉱山の歴史を考える上でも大切な視点を提供しています。  日本海へくだる高原川~神通川に沿い、富山県に入ります。今回の合宿でひとつの重要なテーマであった「神通川流域の社会史」の第二のテーマ、「イタイイタイ病」について学ぶため富山市婦中町にある「清流会館」を訪れました。

イタイイタイ病は終わらない

清流会館内の展示室

   「清流会館」はイタイイタイ病裁判完全勝利を記念し、イタイイタイ病救済のみならず「再発防止のための運動拠点として建設されました」(「清流会館」パンフレット)。イタイイタイ病対策協議会の高木勲寛さんにご案内いただきました。  イタイイタイ病の記録映画を視聴、高木さんの講義を受けた後、学生たちとの討論会を行いました。会館内にある展示室もご案内していただきました。患者の救済、再発防止、「発生源対策」の重要性、さらには「イタイイタイ病をどのように語りついでいくのか?」という問題まで、大変貴重で意義のあるお話しでした。「被害者と加害者の関係は変わらない」、企業とは「緊張感ある信頼関係」といった高木さんのことばが印象的です。  イタイイタイ病については、入手しやすい文献が少なく、私もようやく松波淳一『新版 イタイイタイ病の記憶』(桂書房、2006年)を手に取ったにすぎません(2010年、松波さんは『定本 カドミウム被害百年』桂書房を出版しています)。  なによりもショックだったのは、2011年6月、196人めの患者が認定されたことでした(『復元ニュース/イタイイタイ病』(第81号/第103号、2011年7月18日)。3年ぶりだそうですが、「イタイイタイ病は終わっていない」と再認識することとなりました(同)。  2012年、富山県立イタイイタイ病資料館が開館する予定です。  

米騒動

 9月17日、富山を離れる日は雨でした。富山といえば「くすり売り」、売薬資料館を訪ね、日本海を見ながら魚津に向かいます。  魚津では、「米騒動発祥の地」碑と、米騒動の際、民衆が集合していた旧第12銀行米倉庫を見学しました。1918(大正7)年7月23日が米騒動の日付とされてますが(「魚津の蜃気楼と歴史散策」パンフレット)、地域の研究者によれば、東水橋町では7月上旬から、魚津でも中旬には米移出に反対する民衆行動が見られたといいます(とりあえずは江口圭一『大系日本の歴史14 二つの大戦』小学館ライブラリー版73-74頁)。大文字の歴史も、地域から見なおしてみることが大切です。  今回の合宿は、高山から神岡、富山、日本海・魚津と「神通川流域の社会史」と銘打って行われました。そこで多くの人びとと出会い、多くの事柄を学ぶことができました。とりわけ「清流会館」の高木さんには厚く御礼申し上げます。また、企画や事務(そして運転手)で活躍してくれた塚田さんはじめゼミのメンバーにも感謝したいと思います。 ※この合宿には人文学部後援会の補助を得ました。記して感謝します。

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