教員紹介

おおぐし じゅんじ

大串 潤児

日本史 准教授

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こんなことしています(研究)

北海道 2011・夏 その2

ウトロの夏

ウトロ港にある松浦武四郎顕彰碑

 飛行機は女満別空港に静かに着陸しました。タラップを降りると夏色の風が心地よい道東の一日です。網走に向けてクルマを走らせ、網走監獄・北海道立北方民族博物館などを見学しました。  網走監獄博物館構内の新装なった行刑資料館では、網走~旭川間道路の「タコ労働」についても一定の展示がしてあります。  その後、知床(オホーツク海側)に向かいました。知床は周知のとおり世界遺産ですが、その近現代のすがたについては、『ウトロの自然と歴史』(斜里町立知床博物館1992年)『斜里・知床の近代化遺産』(同、1998年)が参考になりました。もっとも、旅の途中で仕入れたもので、訪れる前は大泰司紀之・本間浩昭『カラー版 知床・北方四島-流氷が育む自然遺産』(岩波新書、2008年)本多勝一『北海道探検記』(朝日文庫版、1984年)を読んでいたにすぎませんでした。

北の街のモダニズム

網走市立郷土博物館

 ふたたび網走に戻り、網走市立郷土博物館を見学します。展示内容のみならず、この郷土博物館ではなによりもその建物を見ることが目的でした。1936(昭和11)年11月、北見教育会により「北見郷土館」として開館しました。米村喜男衛氏の収集した考古・民族資料が基礎となっており、館内には「モヨロ(貝塚)人」の暮らしを知ることが出来る貴重な展示もありました。  この郷土博物館は、地方都市モダニズム建築の著名な事例で、すでに山口昌男が『挫折の昭和史』(岩波書店、1995年)で紹介し、担当した建築家・田上義也についても小伝が書かれています(井内佳津恵『田上義也と札幌モダン』北海道新聞社、2002年)。  市内には網走空襲関連の史跡もあります(菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』北海道新聞社、2007年)。夕暮れのオホーツク海岸には、かつてその周辺が海軍砲台であったという「帽子岩」が寂しげに浮かんでいました。  網走の夜は、「五十集屋(いさばや)」で炉端焼きを楽しみました。そこで「くじら」を食べたのですが、うかつにも旅行より帰ってから菊地慶一『街にクジラがいた風景』(寿郎社、2004年) があるのを知りました。

信善光寺本堂・屯田兵人形

 北海道を去る日、飛行機の出発までの時間を利用して北見市を訪ねました。北見・信善光寺にある「屯田兵人形」の見学と、国道ぞいにある「鎖塚」を訪うことが目的でした。  信善光寺の「屯田兵人形」は早くから永井秀夫ほか編『明治大正図誌 第5巻 北海道』(筑摩書房、1978年)などに紹介されていました。人形製作は、1916年に善光寺庵主によって趣意書が作られ、屯田兵入植家族からの協力もえながら、1933~1936年にかけて製作されたものです。名古屋のからくり人形師が作ったといいます。  1969(昭和44)年、北見市指定文化財に登録されています。  信善光寺関係者のご厚意により拝観させていただくことができました。御礼申し上げます。  北見市内にもどり、この地域の繁栄をささえた「世界商品」=ハッカの記念館(北見ハッカ記念館・「近代化産業遺産」でもある)、屯田兵屋を復元展示している北網圏北見文化センターなどを見て、国道を女満別に向かいました。

地域史のほりおこし

鎖塚供養碑

 女満別にむかう国道から少し入ったところ、「鎖塚」があります。  明治期、対ロシア政策の関係から、旭川~網走道路が急ピッチで建設されました。この建設工事には、網走刑務所と空知監獄の囚人約1000人が使役されましたが、劣悪な環境と、過酷な労働により多くの囚人が死亡しています。囚人たちは、場合によっては死ぬ時も鎖をつけたままで、人骨と同時に鎖も出土しました。「鎖塚」の名はここに由来するといいます。  地域民衆史の観点からは、小池喜孝さんをはじめとするオホーツクの、そして北海道の民衆史運動によるすぐれた成果があります(小池『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』現代史資料センター出版会、1973年、オホーツク民衆史講座編『民衆史運動』現代史出版会、1978年、船津功『歴史学と民衆史運動-地域からの発想と実践』北海道出版企画センター、1994年)。  北大総合博物館から北見へ、そして「鎖塚」。地域や自らの歴史を真摯に見つめなおす展示や、さまざまな試み、それをささえる民衆史運動などの地域サークルの力量に、多くのことを考え、そして学ばせていただきました。  

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