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山口啓介  RNA World-5つの空 5つの海 1991年 (部分)

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護山 真也 (もりやま しんや)
所属分野:哲学・思想論分野

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Ratnākaraśānti's MAV ad MA 32-40

2012年05月11日

This is my tentative edition of the pramāṇa section of Ratnākaraśānti’s Madhamakālaṅkāravṛtti or Madhyamapratipadāsiddhi. Its Japanese translation will come soon in the festschrift for Prof. Seiou Okuda’s 50th anniversary.

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論文情報の更新

2012年01月25日

SOAR研究者総覧の情報を更新しました。


「仏教認識論における解脱論と合理性」、『中部哲学会年報』42, 2011年


"Sense data and akara," Logic, Navya-Nyaya & Applications, 2008


などの拙論が新たにダウンロードできます。

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シリーズ大乗仏教 第2巻 第3巻

2011年12月24日

目次の紹介

 春秋社から『シリーズ大乗仏教』の続巻が出ています。再び、斎藤明先生よりご恵贈いただきました。


第二巻 大乗仏教の誕生


大乗仏教の成立(斎藤明)
経典を創出する(下田正弘)
大乗仏典における法滅と授記の役割(渡辺章悟)
変容するブッダ(平岡聡)
上座部仏教と大乗仏教(馬場紀寿)
アビダルマ仏教と大乗仏教(本庄良文)
ヒンドゥー教と大乗仏教(赤松明彦)
中世初期における仏教思想の再形成(吉水清孝)


第三巻 大乗仏教の実践


第1章 大乗仏教の実践(末木文美士)
第2章 戒律と教団(李慈郎)
第3章 信仰と儀式(袴谷憲昭)
第4章 大乗仏教の禅定実践(山部能宣)
第5章 仏塔から仏像へ(島田明)
第6章 菩薩と菩薩信仰(勝本華蓮)
第7章 大乗戒—インドから中国へ(船山徹)
第8章 中国禅思想の展開—「平常無事」と「悟」(土屋太祐)

大乗仏教の新たな姿

 第二巻・第三巻と続けて読んでいくと、「大乗仏教が分からなくなる」という点で、素晴らしい論考の数々です。「大乗仏教」と聞けば、「小乗仏教(部派仏教)」に対置されて、いかにも確かな概念規定がなされているように思われています。知識のある人ならば、「大乗仏教って所詮は、お釈迦さまの直説じゃないんだから、でっち上げの教えなんだよね」と大乗非仏説を語るかもしれません。あるいは、「大乗仏教は在家者集団から生まれてきたものでしょ」と平川彰先生の仮説を定説にしている人も多いでしょう。これらに共通するのは、「大乗仏教」なるものは自明である、という暗黙の前提です。
 が、研究の最前線に立つ人たちは、まさにその前提に挑戦しています。第三巻の「はしがき」において、末木文美士氏は次のように述べています。


「複数の論文から、大乗が必ずしも部派の仏教とはっきりと断絶しているわけではなく、両者の間には共通性があり、連続的に見るべきことが、さまざまの点から明らかになった。このことは、今度は大小乗を断絶的、二項対立的に捉える見方がどこから生まれ、どのように定着したかという、新たな問題を生むことになる。」


 大乗仏教と部派仏教(小乗仏教)とがどのような関係にあるのか。一世を風靡した平川仮説では、大乗仏教の成立が部派仏教の伝統とは別のところに求められてきました。しかし、第二巻・第三巻に収録されている多くの論文が、その仮説に修正を迫り、部派仏教と大乗仏教との連続面をクローズアップしています。
 このあたりの事情が、もっとも明確にまとめられているのは、第三巻の李慈郎さんの論考です。専門家以外の人ならば、まずは、第三巻の末木氏の章と李さんの章を読んだ上で、第二巻・第三巻の各章を読んでいくと、相互の連関が分かりやすいのではないでしょうか。あくまで個人的な意見ですが…。

残された謎?

 さらに個人的な感想を連ねるならば、大乗仏教と部派仏教との連続面が強調されるあまり、「では、なぜ、部派仏教と連続性をもっている大乗仏教、特にその拠り所となる大乗経典は、紀元前後のある時期に――北インドにクシャーナ王朝、南インドにサータヴァーハナ王朝が隆盛する時期に――出現したのか」という謎が置き去りにされているようにも思います。
 斎藤明氏は、


「北西および北インドとで事情がやや異なるとはいえ、大乗仏教の登場には共通した時代的な背景もうかがえる。東西の交易や異文化交流に前向きな南北の王朝の庇護を受けたこと。バラモン教の復興、王権の伸長とイーシュヴァラ(自在神)信仰の広がり、土着の諸信仰を前面に立て、シヴァとヴィシュヌの二大神が大きな役割をはたすことになるヒンドゥー教の成立、「天啓経」や「律法経」等の祭事経や文法学などのヴェーダ補助学の整備、古典サーンキヤ説やヴァイシェーシカ説の登場、等々である。大乗仏教は、一面において、以上のような背景のもとに成立した教理上の復興運動であった。」(第二巻、p. 5)


と歴史的・文化的な背景をまとめています。しかし、一体、これらの要素のうち、どれがどのように大乗経典の成立に関わっていったのでしょうか。
 大乗仏教が部派仏教と連続面をもち、部派仏教の中に大乗経典を信奉する人々が共存していたとしても、そもそもその大乗経典がなぜ特定のある時期に、ある場所で誕生したのか、の謎が解明されなければならないように思います。
 もしかしたら、その謎を解く鍵は、斎藤氏が述べた「異文化交流」という一語にあったのかもしれません。クシャーナ王朝下で、非インド的な宗教文化との邂逅がおこり、そのハイブリッドとして大乗経典の書写がはじまった、なんてことはないんでしょうか。仏像の創始に関して、最新の研究を紹介した島田明氏が、それらの研究の「妥当性は未だ十分に検討されているとは言い難い」という留保をつけた上で、「あるいは仏陀像創始の直接的な原因は、教義とは関係のない、支配民族の文化伝統に求めるべきものなのかもしれない」(第三巻、p. 139)と記したことが、大乗経典の成立にもあてはまるとしたらどうでしょう。そのとき、「〈大乗〉仏教」という幻想が砕かれたのと同じように、「〈インド〉仏教」という幻想もまた砕かれるのかもしれません。
 なにはともあれ、大乗仏教の成立と展開に興味をもつ人々にとって、この二つの巻は必読です。


 また、授業で「アポーハ論」やら、「ハルプファスが言うには、パタンジャリが…」やら、呪文のような言葉に悩まされている人には、第二巻所収の吉水氏の論文をお薦めします。「競争的資金」の獲得にあくせくしている先生たちの姿と、古代インドの哲学者たちの姿が重なって見えるはずですから。

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2011 ダルシャナ科研松本合宿

2011年09月26日

インド哲学 in 松本

 去る8月24日から25日にかけて、信州大学人文ホールにて、日本のインド哲学研究者が集うセミナー合宿が開かれました。東京大学の丸井浩先生がプロジェクト・リーダーを務める、インド哲学における存在論・カテゴリー論の展開を解明するための共同研究の合宿です。


 「ダルシャナ」とは、業界用語で「インド哲学」を意味するものと理解してもらえればいいでしょう。


 なぜ松本なのか?「とりあえず日本の真ん中だから、みんな集まりやすいし、東京などに比べれば、少しは涼しいでしょう」という理由かどうかは定かではありませんが、これだけ有名どころの先生方・研究者の皆さんが信州大学に集まるというのも、なかなかあるものではありません。しかもテーマは存在論!で、でかい…。

プログラム

桂紹隆  基調講演
丸井浩  「ハルプファスの研究成果から、<存在>をめぐる議論の諸相をさぐる」
藤永伸  「ジャイナ教存在論概観」
加藤隆宏 「バースカラの無明論批判と別異非別異論」
李宰炯  「バルトリハリの時間論」
江崎公児 「ウダヤナの滅無因説批判について」
鈴木孝典 「ヴァイシェーシカ学における存在論の意義」


 以上の発表に加えて、全体討論が行われました。

個人的な感想

 いずれの発表も刺激的な内容であったわけですが、「存在論」という単語を聞くとどうしても思い出してしまうのが、ハイデッガーの名前です。


 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか」という有名な一文で書き出された『形而上学入門』(訳は平凡社ライブラリーの河原栄峰訳による)において、ハイデッガーは存在を規定するために、次のような四つの対立軸を立てました。


(1)存在と生成
(2)存在と仮象
(3)存在と思考
(4)存在と当為


 「と」で結ばれた、この四つの概念と「存在」との差異をめぐって、ハイデッガーはギリシア哲学から現代の人間観にまでいたる、徹底的な思索を行ったわけですが、この四つの対立軸は、インド哲学における「存在」を考える上でも非常に有益であろうと思われます。


 (1)の存在と生成については、江崎氏の発表が示唆したように、仏教の刹那滅論と存在との関係が問われるべきでしょうし、(3)の存在と思考については(ここが一番、難解な個所ですが)、インド的なロゴス(言語)と存在との関わりが問題になってきそうです。李氏の発表が、その糸口を提示してくれています。


 また、今回の発表では取り上げられていないものの、(2)の存在と仮象については、インド哲学におけるvyakti, pratibhāsa, prakāśaなどの概念と存在とのつながりが考察に値するでしょう。


 そして、(4)の存在と当為については、まさにミーマーンサー学派が追及したダルマ(ヴェーダの規定における当為)と存在との関連の解明が期待されるところです。
 

存在論とカテゴリー論

 桂氏の基調講演で述べられたことですが、この共同研究が目指すところは、(1)インド哲学諸派において「存在」に関するコンセンサスは何か、(2)インド哲学諸派において共通に前提とされる「カテゴリー」は何か、という二つの問いに向けられることになりそうです。


 しかしながら、この二つの問い、あるいは、存在論とカテゴリー論という二つの「論」の間には、大きな溝があるようにも思われます。存在論の問いとしては、先に述べたような、ハイデッガー的な問いにインド哲学としてどう答えることができるのか、あるいはその限界が露呈するのはどこなのか、を見定めることが課題となりますが、カテゴリー論の方にはどういったアプローチが可能なのか、まだ先が見えないところがあります。全体討論でも、この二つの関係が問題とされていましたが、インド哲学の枠を超えて、さらに広がりのあるテーマにもなりそうです。今後の熱い議論が期待されます。


 参加された皆さんの中には、松本ははじめてという方も多かったのですが、個人的に聞いた限りでは、人文ホールや浅間温泉など、非常に好評でした。というわけで、来年もまた松本で!ということになりそうな雰囲気でございます。うーん、しばらく、松本の夏はサイトウキネンとダルシャナで熱くなりそうですねぇ。


補足:東洋思想講読を受講される皆さんへ


 以上の議論は、昨年から講読しているW. Halbfass, On Being and What There Isと密接に関係しています。なにやらよく分からない本を読んでるな、なんて思わずに、その議論の広がりを、この報告から感じ取ってもらえるとありがたいです。

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書評:佐々木閑著『「律」に学ぶ生き方の智慧』

2011年09月22日

 本願寺教学伝道研究所の仏教書レビューに書評が掲載されました。以下でご覧ください。

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シリーズ 大乗仏教(春秋社)刊行スタート

2011年07月12日

全10巻の内容

 大乗仏教研究の入門書の定番であった「講座 大乗仏教」(春秋社)の刊行から30年あまりが経過した今、大乗仏教研究の最新の成果を網羅したシリーズが刊行されます。その構成は以下の通り。


第1巻  大乗仏教とは何か
第2巻  大乗仏教の誕生
第3巻  大乗仏教の実践
第4巻  智慧/世界/ことば
第5巻  仏と浄土
第6巻  空と中観
第7巻  唯識と瑜伽行
第8巻  如来蔵と仏性
第9巻  認識論と論理学
第10巻 大乗仏教のアジア


 私も第9巻に「全知者証明・輪廻の証明」と題して寄稿していますが、その刊行はもう少し先でしょう。

第1巻 大乗仏教とは何か

 編者の一人である斎藤明先生より6月30日に刊行されたばかりの第一巻をご恵贈いただきました。第一巻の目次は以下のとおり。


第1章 大乗仏教とは何か(斎藤明)
第2章 経典研究の展開からみた大乗仏教(下田正弘)
第3章 大乗仏教起源論の展望(佐々木閑)
第4章 大乗仏説論の一断面―『大乗荘厳経論』の視点から(藤田祥道)
第5章 アフガニスタン写本からみた大乗仏教―大乗仏教資料論に代えて(松田和信)
第6章 漢語世界から照らされる仏教(下田正弘・ジャン・ナティエ)
第7章 中国における教判の形成と展開(藤井淳)
第8章 インド仏教思想史における大乗仏教―無と有との対論(桂紹隆)


 いずれも興味深い論考ばかりです。松田先生が書かれた第5章「アフガニスタン写本からみた大乗仏教」には、前回の「講座大乗仏教」から今にいたるまでに仏教文献学でおきた劇的な変化が次のように書かれています。


「本書の前身シリーズ「講座大乗仏教」の第一巻『大乗仏教とは何か』が刊行されたのは昭和56年(1981年)であった。それから現在に至る30年間に、大乗仏教研究に関連する文献資料の状況は大きく変化しつつあるように思われる。特に1990年代の中頃から現在に至る、サンスクリット語(梵語)とガンダーラ語による新たなインド語仏教写本の発見、特にパキスタンとアフガニスタンにまたがるガンダーラ、およびアフガニスタンのバーミヤーン渓谷における膨大な量の仏教写本の発見は、これまで多くの研究者たちによって積み重ねられてきた大乗仏教研究に加えて、インドの大乗仏教をめぐる、より正確でより重要な情報を私たちに次々ともたらしつつあるからである」(153頁)


 ここで言及されている写本の解読作業(現在進行中)から、松田先生は大乗仏教の成立についても興味深いコメントをされています。大乗仏教に関心のある方にとって必読のテキストです。

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台湾滞在記

2011年06月28日

青年活動中心

青年活動中心

 前回、学術的な内容だけで書きましたので、今回は非学術的な視点で、台湾滞在の顛末をご報告しましょう。
 四日間の滞在を終えて、私の正直な感想は、現在、中国でサバティカル研修をされている早坂先生へのリスペクト、これにつきます。
 初日、桃園国際空港に着いた私は、適当にタクシーをつかまえて、目指す「法鼓仏教学院」の文字を見せて、よろしくお願いします、とご挨拶。さすが漢字が通じると楽だなぁ、なんて思いながら、台北の象徴である台北101タワーなどを横目に、ひたすら北海岸を目指しました。爆走すること1時間あまり、金山に到着。ここは温泉街で、やたらと温泉施設の看板が並んでいます。
 法鼓仏教学院は、この金山の法鼓山の中腹にあります。タクシーの運ちゃんも迷うような道でした。
 会場で、ウィーンでお世話になった先生方や研究者たちに会いましたが、皆が口をそろえて言うことには、「昨日のウェルカム・パーティーは精進料理だったよ」とのこと。酒・肉、一切なしのセレモニー。さすがは仏教学院です。
 宿泊したところは、Jinshan Youth Activity Center. 漢字で書くと、「青年活動中心」。青少年自然の家のようなところでした。娯楽施設は一切、ありません。コンビニも近くにありません。初日、泣きながら自動販売機でカップ麺を食べました。中国語でクレヨンしんちゃんを見ながら…。早坂先生もこんな生活してるんだろうなぁ、なんて思いながら…。
 

故宮博物院、そして…

 滞在中、参加者のために故宮博物院へのツアーが組まれました。蒋介石の国民政府が、紫禁城から避難させた宝物群が展示されています。
 白菜やお肉を模った石をはじめ、哲学懇話会で宇佐美先生が講演された、気の流れが描写された山水画・書の傑作が並べられています。また、チベットからの仏像・龍蔵経も展示されていました。
 2時間ではとてもすべてをじっくり鑑賞することはできませんでしたが、久々の博物館体験でした。
 さて、その後は桃園まで移動し、Quanta Arts Performance, "First Moon, Full Moon" の鑑賞です。手塚治虫の『ブッダ』に出てきた、鹿の王が身ごもった母鹿の代わりに人間に食べられるために、人間の王の前に出てくるというお話。その鹿の王の姿に、人間の王は新月と満月の日には肉食をやめることにした顛末が、様々な身体表現で演じられていました。
 ベジタリアンじゃなきぇいけないねぇ、なんて語りながら、その日の夜、先輩と食べに行った場末のレストランでは、しっかり「牛肉麺」なるものを食べた私は、罪深い人間です。ラーメンに焼肉をのせる、という斬新な発想に感動しました。

台北ライフ

 最終日は、飛行機に乗る時間まで先輩と台北の街を散策。
 なにしろ、これまでひたすら山の中の修行道場みたいなところにいたもので、活気溢れる市街地に感動でした。感動のあまり、バスの中にカメラを忘れ、そのカメラを取り返すために、あたふたするという一幕もあったわけですが…。(このあたりは、九州大学・片岡啓先生のブログ「疾走するダルマキールティ研究者」をご覧ください。)
 街中はいたるところに漢字の看板。「大腸麺線」なる食べ物がいかなるものか、非常に気になるところでしたが、屋台で、お惣菜盛りだくさんのから揚げ定食を食べました。実にうまかった。早坂先生、食べてますか?
 お土産を買うために寄ったお茶屋さんでは、台湾式のティーセレモニーのやり方を見せてもらいました。急須までお湯であっためるんですね。
 そんなこんなで、いろいろハプニングもありましたが、楽しい四日間でした。

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Ratnākaraśānti's theory of cognition with false mental images

2011年06月28日

The paper presented in the 16th IABS Congress at the Dharma Drum Buddhist College in Taiwan, 22th June, 2011 is as follows:

Shinya Moriyama:  Ratnākaraśānti’s theory of cognition with false mental images
(*alīkākāravāda) and the neither-one-nor-many argument

IABS2011Moriyama.pdf

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第16回IABS会議報告(台湾・法鼓仏教学院)

2011年06月28日

法鼓仏教学院

 世界の仏教研究者が一堂に会する国際仏教学会(IABS)会議に出席してきました。場所は、台湾の北海岸に面する金山の法鼓仏教学院です。6月20日から25日までの五日間にわたり、最新の研究成果がそれぞれの部会で発表されましたが、私が聴講できた範囲で印象に残った発表の幾つかを紹介しておきましょう。

6月21日

Watanabe, Toshikazu (渡辺俊和):How can the existence of the Sāṅkhya’s pradhāna be negated?
 現在、ディグナーガの『集量論』第三章ならびにジネーンドラブッディの注釈を研究している同氏の発表は、サーンキャ学派の根本原質(pradhā)の否定論証を考察しつつ、ディグナーガが『因明正理門論』から『集量論』にいたる過程で、主張命題の定義を変更したことが、帰謬論証に与えた影響について論じていました。帰謬論証は、中観派の無自性論証で重要な役割を担うものですが、無自性論証における基体不成立の誤謬を考える上でも、大いに参考になる論考でした。

MacDonald, Anne: The introductory verses of the Mūlamadhyamakakārikā
 ナーガールジュナの『中論』冒頭を飾る帰敬偈に関して、特にそこに登場するśivaという語が何を意味するのか、また、そもそも帰敬偈というものが一般に論書の冒頭に置かれるようになるのはいつからなのか、という点が論じられていました。

6月22日

Panel: Forms or Aspects in Buddhist Philosophy and Soteriology of Consciousness (Conventors: S. McClintock & B. Kellner)

 ākāraは、一般に「形象」と訳されます。仏教の有形象認識論では、ある対象を知覚する際に、認識内部に形作られる対象像を意味しますが、その背景となる伝統的なアビダルマ教学との関連や、ヨーガ行者の直観や全知者の認識など、解脱論(soteriology)の文脈が考慮される場合に生じる解釈上の問題などは、これまで十分に論じられてきませんでした。このパネルでは、私を含む10名の発表者が、それぞれの研究を披露し、討議を行いました。

 さて、仏教における有形象認識論の形成を考える上で、5世紀に活躍したヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』が重要な資料の一つとなります。アビダルマ教学をまとめたこの本の中で、ヴァスバンドゥは、ākāraを、対象を分類化して捉える際のフレームとして考える一方で、経量部的な立場から記述されたと目される第九章においては、外的対象と類似した対象像として捉えています。前者の意味でのākāraは、対象を分節化する能動的な作用をもつものと言えますが、後者の意味でのākāraは、あくまでも対象から与えられる、受動的なものです。B. Kellner氏は、両者の違いを「志向性」(intentionality)という術語を用いながら再考することを提案しました。

 V. Eltschinger氏の発表も、アビダルマ的な修道論で言われる四諦十六行相の現観を分析しつつ、それがダルマキールティのヨーガ行者の直観にどのように結びついていくのかを考察したものでした。無常性をはじめとする十六行相の「行相」もまたākāraという単語で表されますが、いわゆる対象像とは異なるものであることは明らかです。ダルマキールティは、ヨーガ行者の直観の対象の一例として「四聖諦」を挙げていますが、その直観は知覚の一種である以上、独自相(個物)を対象とする非概念的なものでなければなりません。しかし、「四聖諦を非概念的に捉える」とはどういうことなのか。これまで研究者を悩ませてきたこの難問に対して、Eltschinger氏は、アビダルマ文献まで遡って再考する必要性を説きました。

 S. Margherita, H. Kobayashi, A. Watson, I. Ratie各氏の発表は、大きな文脈で言えば、ダルマキールティの「同時知覚の必然性」(sahopalambhaniyama)に基づく有形象認識論・自己認識論の証明に関わる諸問題を扱ったものと、私は理解しました。小林氏の発表が明瞭にしたように、認識が有形象であることの証明のために、インドでも、錯覚論法・幻覚論法に等しい論法が用いられる場合があります。この場合、錯覚と通常の知覚との間にある種の共通性が証明されなければ、「私たちが直接的に見ている対象はセンス・データである」ことを導くことはできません。小林氏の発表は、プラジュニャーカラグプタの議論を分析しつつ、その共通性の証明には、PV I 242の議論が援用されることを明らかにした点に、大きな価値があったと思います。

 また、有形象認識論とセットで語られる自己認識論に関して、その比喩で用いられるprakāśaという単語がもつ意味の揺れ幅(光源か、照明作用か、輝きか)を論じた、Watson氏の発表は興味深いものでした。今後、初期唯識文献なども含めて、同氏の提起した問題を考えてゆく必要がありそうです。

 認識が有形象であること・自己認識があることは、同時知覚の必然性に基づいて証明されますが、そのことはそのまま外界否定を含意するものではありません。有形象認識論から唯識に至るまでには、外界否定、特に原子という存在が理論的に成り立たないことを立証する必要があります。つまり、唯識性証明のためには、同時知覚の必然性による証明と原子論批判との二本柱が必要になるわけですが、この二つの柱は本来、別々のものであることに注意が必要です。シャーンタラクシタの『真実綱要』「外界対象の考察」章は、この二つが結びつけられた箇所であり、対論者であるシュッバグプタの認識論的立場を含め、慎重な考察が必要になるところだということが分かりました。

 M. Notake氏の考察は、ダルマキールティにおける概念知の発生要因を分析したものですが、ākāraとアポーハという、これまた大きな問題につながるところでもあり、またいずれどこかの学会で集中的に取り上げられるべきテーマであるように思いました。

 S. Moriyama, F. Sferra, S. McClintockの各氏の発表は、シャーンタラクシタ以来、先鋭化された瑜伽行派の二分類、形象真実論と形象虚偽論との対立、分類方法、そして全知者論との関係を取り上げたものでした。日本ではすでに梶山雄一氏や沖和史氏などにより論じられてきた問題ではありますが、欧米の研究者たちが自己認識論・形象論の哲学的意義に注目しはじめた今だからこそ、あらためてそれらの業績を再考することは大切でしょう。これらの研究が目指すゴールの一つは、難解で知られるジュニャーナシュリーミトラの『有形象証明論』の解読にあるわけですが、そこに至るまで、実に多くのハードルが越えられなければならないことが、今回、よく分かりました。

 ともあれ、形象論研究の問題点を共有できたという意味において、全体として、非常に実り豊かなパネルだったと思います。Kellner, McClintockの両氏に感謝です。

6月23日

Kataoka, Kei: Dignāga, Kumārila and Dharmakīrti on the potential problem of pramāṇa and phala having different obects.
 片岡氏がこれまで主として日本語の論文で展開してきた、「PS 1.9には自己認識を認識結果として認める経量部説は無い」という主張を英語で問うたもの。この主張は、「経量部的な有形象認識論は自己認識を含意する」ことを否定するものではない、という点に注意が必要です。有形象認識論にとって自己認識は必然的であるか否か、が今後の問題になりそうです。

Franco, Eli: A Newly Discovered Manuscript of Jitāri’s Works.
 タイトル通り、9世紀頃に活躍したジターリの著作の写本が新たに発見された、という衝撃的な内容でした。ジターリという哲学者は、私が研究テーマとしてきたプラジュニャーカラグプタ(8世紀頃)と10-11世紀のジュニャーナシュリーミトラ・ラトナキールティとの間をつなぐ貴重な存在です。今回、報告された写本には、プラジュニャーカラグプタの「未来原因説」(bhāvikāranavāda)との関連が予測されるもの、また、唯識性証明に関わるもの、などが含まれており、解読の成果が公刊されるのが楽しみです。

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A short remark on PSV ad PS 1.9c

2011年03月02日

As Hattori (1968, Dignāga, On Perception, p. 104, n. 1.64) has noted, Prajñākaragupta’s PVABh 393.27-30 quotes Dignāga’s PS(V) 1.9cd. The quotation contains two variants to Steinkellner’s edition (http://ikga.oeaw.ac.at/Mat/dignaga_PS_1.pdf) of PS 1.9c and its vṛtti, that is, (1) viṣayākārataivāsya for viṣayābhāsataivāsya, and (2) jñānaṃ svasaṃvedyam api for jñānasvasaṃvedyam api.

Whereas the former is just a wrong transcription of Ms. B 198b7, the latter is also supported by Ms. B 198b7. The reason why Steinkellner took the two words as a compound is clear, because Jinendrabuddhi comments on this part as follows (PST 72.6): tadā hi jñānasvasaṃvedyam apītyādi. jñānasya svasaṃvedyam iti vigrahaḥ.

However, if we look at the two Tibetan translations of PSV (: shes pa rang rig pa yin yang/shes pa rang rig par bya ba yin yang) in Hattori 1968:182-183, we understand that there still remains a possibility to keep the reading: jñānaṃ svasaṃvedyam api. From the viewpoint of the context of its argument, too, this reading seems to be preferable. Thus, I would like to correct the text of PS 1.9 in my article, “On Self-awareness in the Sautrāntika Epistemology” in JIP 38/3, p. 262 (thanks to Dan Arnold's remark in p. 352, fn. 74 in the same volume), but keep the reading “jñānaṃ svasaṃvedyam api” in p. 263.

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虫の文字

2011年02月18日

ブッダの言葉は虫の文字?

 2006年にウィーン大学に提出した博士論文の出版準備が大詰めです。せっせと索引作成などをやってますが、最近、思わぬ見落としがあったことに気づきました。


 ブッダが私たちを正しく導いてくれる指導者であることをどのようにして確認したらよいのか、という疑問をめぐって、プラジュニャーカラグプタは「私たちが知覚や推理を駆使して確認できる対象をその人が述べているのであれば、その人のことを信頼して実践に踏み出しなさい」というようなことを答えます。


 まぁ、ここまでは彼のお師匠さんであるダルマキールティも言っていることですが、問題はその次です。


 「仮にブッダが教えた諸行無常などを自分たちの認識で確認できたとしても、そのことをブッダが直観していたかどうかなんて確定できないではないか」(PVA 51.33意訳)


 ブッダの教えは彼自身の覚りに基づかない可能性もあるじゃなないか、という反論です。つまり、自分では理解してないのに、たままた口にしちゃった言葉が偶然的に正しかったという可能性もあるんじゃないの、というなかなかskepticalな反論を想定しています。


 答えが気になるところですが、ここでタイトルの「虫の文字」が登場します。注釈者のヤマーリという人が、この個所に対して「彼の教えは虫の文字のようなものになってしまう可能性があるからだ」(D 44a1, P 52a5–6: de'i nye bar bstan pa ni srin bu'i yi ge bzhin du 'gyur srid pa'i phyir ro)とコメントしているのですが、この「虫の文字」って何なんだ?


 同じ「虫の文字」が中観派のバーヴィヴェーカの『中観心論』9章152偈(Cf. 川崎信定『一切智思想の研究』、春秋社、p. 180)に登場するところまでは分かっていたのですが、その典拠が当時の私には分かりませんでした。

文字と仏教

 この典拠についての情報は、先日、偶然、手にとった春秋社の月刊パンフレット『春秋』(2011年1月号)の巻頭を飾る師茂樹さんの「虫食いの跡が文字に見えることについて」から得ることができました。


 現在、多方面で活躍されている師さんですが、私が財団法人東京大学仏教青年会で働いていたときに、お隣の大正新修大蔵経テキストデータベースの事務所でお仕事されていたんですね。仏青時代の思い出はとりあえずおいておくとして、この師さんの論考から『涅槃経』に次のような話があることが分かりました。


 ある国に無能な王様がいた。その国には病気についての知識がない愚かな医者がいて、どんな病気にも牛乳を薬として処方していた。

 ある日、その国に遠方より賢い医者がやってきて、王様に気に入られた。賢い医者は、愚かな医者が処方していた牛乳の服用を厳禁し、違反したものは死刑にするよう、王様に命令させた。一方で、病気に応じた様々な薬を処方したので、病気になる国民が減った。

 ところがある日、王様が病気にかかったときに、賢い医者は牛乳を飲むように診断した。王様は賢い医者に「なぜ以前は厳禁していた牛乳を飲ませるのか」と質問した。その時、賢い医者は、


 「虫が木を食べた跡が偶然文字のようになったとしても、その虫にはそれが文字かどうかがわからないように、愚かな医者も乳が毒にも薬にもなることがわからなかったのです……」
と答えた。(師茂樹「虫食いの跡が文字に見えることについて」p. 1f.より引用)


 師さんはここから言語と文字をめぐる興味深い考察に入っていかれますが、いやぁ、ここにありました。『涅槃経』からヤマーリまでつながる導きの糸を教えてもらい、本当に感謝です。

 

ウィンストン・チャーチルを描く蟻

 最後におまけで、パトナム話を加えておきます。ヒラリー・パトナムの『理性・真理・歴史』(野本和幸他訳、法政大学出版局)の第一章は「水槽の中の脳」。やたら有名な話ですが、その論文の冒頭は次のようにはじまります。


 一匹の蟻が砂地をはっている。はいながら砂に線をひく。まったくの偶然で、ひいた線が曲がって交わって、しまいには、いかにもウィンストン・チャーチルの漫画らしく見えるようになる。蟻はウィンストン・チャーチルの絵をなぞったのか。蟻はウィンストン・チャーチルを描いた絵をなぞったのか。

 (中略)

 他方、線がWINSTON CHURCHILLという形になったとせよ。そして、これがまったく偶然だったと(起きそうもないことなのは無視して)仮定せよ。そのとき、WINSTON CHURCHILLと「印された形」は、チャーチルを表現してはいないであろう。今日ほとんどどんな書物にでも、この印刷された形が出てくればチャーチルを表現するにもかかわらず、そうなのである。(『理性・真理・歴史』、p. 1f.)


 ここからパトナムは表現に必要なのは私たちの意図なのか、心的イメージもまた蟻の絵(文字)と同じく、何ものも指示しえないのではないか、云々という議論を展開します。


 「ブッダの教えは虫の文字の類ではない。そこには確かなブッダの意図があるのだ」と語る仏教徒も、パトナムに言わせれば、「意味の心像説」という呪縛の中にあるということになるのかもしれません。


 ともあれ、自分の博士論文が「虫の文字」(本人分かってないけど、偶然あたってた!)にでもなってくれれば幸いですが、どうなることやら。 

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ダライ・ラマ法王Teaching 2010 in 広島

2010年11月12日

題目:「輪廻と業果:過去・現在・未来と「私」を見つめる」

 日時:20101111日 

会場:広島市文化交流会館大ホール

 

 ダライ・ラマ14世の法話会を聴講しました。エントランスに入りきれないほどの多くの参加者が詰めかけた法話会で、広島の人々へ、日本の人々へ向けてダライ・ラマは次のようなメッセージを送りました。私なりの要約ですので、多くの誤解があると思います。ご寛恕ください。講演の詳細は文殊師利大乗仏教会のウェブサイトhttp://www.mmba.jp/でご確認を。

 

*** 

 

 私はいつも、「全ての人々は苦しみを除き幸福を求めるという点で共通する。ではどうすれば苦しみを除き幸福を得ることができるのか」というテーマを語っています。

 

 幸福は物質的なものに基づくものと、心に基づくものがあります。このうち、物質的なものに基づく幸福だけでは、ひとは本当の幸福にいたることはできません。どれほど物質文明が進歩しても、心の平安が得られなければ苦しみはなくなることはないのです。

 

 心の平安を得るためには、心のあり方を変えなければなりません。人間は知性をもち、過去を記憶し、未来を予測することができます。では、どうしたら未来の幸福を得ることができるのか。

 

 心の平安を得るために、宗教はあります。宗教には、創造主を前提とするものと、創造主を前提としないものがあります。仏教は後者に属します。仏教は創造主を前提とせず、あらゆる物事は縁起にもとづくことを説いたものです。

 

 確かに今では、この二つの宗教以外にも、まったく宗教を信じない人々も存在します。宗教を信じるかどうかは個人の問題です。宗教を信じていても、信じていなくても、共通して、〈憐み〉の心をもつことが大事だと私は考えます。むしろ現代では、無宗教の人々が〈憐み〉の心に目覚めることがより大切なことかもしれません。

 

 私たちは誰でも母親から生まれ、生まれたその瞬間には、母親の大きな愛に包まれていたはずです。その母の優しさを思い、宗教を信じていなくても、〈憐み〉の心を育てること。このことが身体の健康にも寄与し、そしてさらに心の健康にもつながることを、アメリカの大学で行われている研究が明らかにしつつあります。

 

 では、仏教ではこのことはどう教えられるのでしょうか。仏教はパーリ語聖典に基づくもの、大乗仏教の教え、密教の教えと分かれているかのように思われますが、実は、それらは大きな一つの建造物のようなものです。どの教義が優れているか、ということではなく、いずれかがいずれかの基礎となり、仏塔のようにそびえたつものです。

 

 パーリ語聖典に基づく仏教では、四聖諦が教えられます。苦しみの真理、苦しみの原因の真理、苦しみを滅した状態の真理、苦しみを滅する方法の真理です。

 

 苦しみとは何か。ブッダは三種類の苦しみがあると説きました。一つは、苦苦。動物にも共通する肉体的な苦痛のことです。二つ目は、壊苦。あらゆるものは変化し壊れてゆく。そのために受ける苦しみです。そして最後は、行苦。私たちを構成する五つの要素、その存在がそのまま苦しみになるということです。

 

 これら三種類の苦の原因となるもの、それは欲望、怒り、無知という三種類の心の状態にあります。このうち、無知とは、本来の姿を間違って捉えることです。不浄のものを「浄」と思い、苦を「楽」と思い、無常のものを「常」と思い、無我なるものを「我」と思う。その思い違いの心です。また逆に、本来清浄なものをそのように思えない心でもあります。

 

 この苦の原因を滅した状態が「滅」ですが、これに至る「道」として戒律を守ること、精神集中を行うこと、そして智慧を実践することが説かれました。

 

 この智慧の実践とは、「無我」の実践、「空」の実践ということですが、この「空」の教えは虚無論として誤解されることがしばしばあります。

 そこでブッダは、段階的に、パーリ語聖典で「無我」を説き、大乗の『般若経』で「空」を説き、最後に『解深密教』で「三性説」を説きました。三性説を説くことで、空を虚無論として捉える誤解を除き、さらに心の本来的な姿は清浄なものであることを明らかにしたのです。

 

 仏教論理学者ダルマキールティは、「輪廻する(五つの)構成要素は苦である。(前世からの)習慣化のために欲望などが激しくなることが見られるからである。(そのようなことが)偶然的におきるはずがない。〈原因がないこと〉は〈(何かが)生じること〉と矛盾しているのだから」(PV II 146cd-147ab)と説いています。

 

 つまり、輪廻と解脱の教説には一貫して縁起の思想、因果律の考えが流れているのです。私たちは、意識の流れと肉体を形成する物質の流れで構成される連続体です。意識と肉体とは相互に因果関係を結び、また、それぞれはその原因となる質料因の結果として存在します。肉体が構成される因果をたどっていけば、宇宙の誕生であるビッグバンにまで行き着くでしょうが、ビックバンを生み出したエネルギー、そしてさらにその先へと因果は続きます。

 

 意識も同じように因果で結ばれた連続体であることを知れば、輪廻があることになります。そして、輪廻の苦から出離したいという心をおこすこと、これが菩提心です。菩提心を起こし、長い時間をかけて戒律の順守・精神集中・知恵の実践という「三学」を行うことで解脱が得られます。

 

 日本には、パーリ語聖典の教えもあれば、大乗仏教の教えもあり、密教の教えもあります。皆さんは、ここで仏教のすべてを学ぶことができるのです。それらはばらばらのものではなく、統一体であることを知り、その教えを長い時間をかけて実践していってもらいたいと思います。

 

 

*** 

 

 これに続いて質疑応答がありましたが、印象深い質問として「私の子供は生まれたときから知能障害を抱え、これまで子供も親も苦しみを受けてきました。これは前世の因縁なのでしょうか。仏教は、この苦しみをどう取り除いてくれるのでしょうか」という趣旨のものがありました。

 

 ダライ・ラマは、この質問者に深い同情の念を表明しつつも、次のような言葉を返しました。

 

「あなたは自分が受けてきた深い苦しみにより、他の多くの人々の苦しみを想像することができるはずです。戦争や飢餓で苦しむ多くの人々のことを思いやることができるはずです。その慈しみの心をもつことが、あなた自身の苦しみを軽減することにつながるでしょう。」

 

 苦悩が深ければ深いほど、慈悲の心もまた深くならなければならない。どうでしょうか。私は、このメッセージに心を打たれました。さすがはダライ・ラマです。

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書評:ビルマ仏教徒 民主化蜂起の背景と弾圧の記録

2010年11月12日

本願寺教学伝道研究センターの「仏教書レビュー」に掲載された書評です。

http://crs.hongwanji.or.jp/kyogaku/review/index.htm

「書名別一覧」より『ビルマ仏教徒 民主化蜂起の背景と弾圧の記録』(明石書店)をクリックしてください。

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第一回信州大学哲学懇話会を終えて

2010年06月22日

 第一回信州大学哲学懇話会が盛況のうちに終わりました。ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。

 

 懇話会に先立つシンポジウムでは、「今、哲学すること」というテーマに関して、小宮山元学長より提題がなされ、私もパネリストの一人としてその提題に対する回答を行う役目を授かりました。

 

 私の理解では、提題のポイントは二つありました。一つは、信州大学において、今、求められる哲学教育のあり方、そしてもう一つは、アカデミズムの世界を超えて、広く一般市民に伝えられるべき哲学のあり方です。

 

 第一の点に対しては、現時点での授業の概観とその狙いを述べることで答えになるでしょう。

 

 現在、学部では東洋思想概論、サンスクリット文法、原書講読などの授業を担当していますが、これらの授業を通して、私が学生の皆さんに伝えたいと思っていることは、二つあります。それは、(1) 文献学の重要性と (2) 翻訳の際に意識されるべき比較思想の営みです。

 

 文献学とは、テキストの批判的校訂(critical edition)に結実されます。インド哲学の分野では、主な研究者は各自が専門とするテキストの批判的校訂の作業を着々と進めています。宮元啓一氏は、この状況を「滑走路を作ること」に譬え、その目的は、「飛行機を飛ばすこと」、つまり、思想そのものの研究にあると述べています。

 

 それは一面においてまったく正しい指摘なのですが、「滑走路を作ること」は、思想そのものの理解なしには不可能でしょう。複数の写本から原テキストを復元する試みは、絵画などの修復作業に似ています。テキストが書かれた当時の言語的・思想史的・文化的状況の理解に比例して、校訂の精度は高まっていくのです。

 

 その意味で、批判的校訂とは、校訂者の主観に依拠していいます。このような文献学の宿命を確認しつつ、原書講読の授業においては、できるだけ異読の価値を検討しながら、「テキスト」が生成する場面を伝えたいと考えています。それこそが、テキストの重層性・多面性を考えぬく知性を育てることになると、私は信じているからです。

 

 一方、テキストの翻訳という場面においては、また別種の知性が必要とされます。サンスクリットの様々な術語を日本語に置き換える際、私たちは、否応なく西洋哲学に固有の術語と出会います。「知覚」「本質」「普遍」「認識対象」など、伝統的な漢訳ならば「現量」「自性」「共相」「所縁」などと訳されてきたものです。

 

 現代では、後者の訳語はほとんど理解されえないと思います。では、前者の訳語ならば問題ないのか、と言えば、これらが西洋哲学の長い伝統の中で独自の意味合いをもっていることに無自覚なまま、これらの訳語を採用することは危険です。つまり、一つのサンスクリットの術語を日本語に置き換えるということは、それ自体で、すでにかなりスリリングな比較思想的な営みになるということです。

 

 『意識と本質』の「後記」で井筒俊彦が書いたように、「意識の表層と深層とを二つの軸として、西洋と東洋とが微妙な形で融合している」のが、日本人の実存だとすれば、翻訳という知的作業は、まさにその実存を反省し続ける作業だと言えるでしょう。

 

 さて、提言の第二点である、「アカデミズムの外部においてインド哲学・仏教学はどのような役割を果たしうるのか」については、シンポジウムの中で十分な答えを与えることができませんでした。

 

 市民の間で求められる「哲学」とは、何らかの形で「人生の指針」「様々な不安・苦悩に対する処方箋」のようなものではないかと推察します。

 

 仏教を含むインド哲学は、解脱を目的としたものであり、宗教的な要素と不可分のものです。そのことを考慮に入れれれば、インド哲学における「宗教の価値」を考えなおし、古代ギリシアにおける叡智の実践などとも重ね合わせながら、その実践論を現代の文脈で読みなおすことが、この点に対する答えとなるのだと考えていますが、まだまだ思索の途上にあります。

 

 以上、シンポジウムを振り返りつつ、日頃の授業で何を考えているのかをつらつらと書いてみました。学生の皆さんの参考になれば幸いです。

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2月20日

2008年02月21日

 谷沢淳三先生が亡くなられて一年が経ちました。

 

 文献学研究が主流であるインド哲学の世界にあって、比較思想の観点から研究を続けられた先生の業績は、ひときわ異彩を放つものでした。

 

 そんな先生を偲びつつ、この半年、はじめて担当した比較哲学特論では、そのテーマに「インド仏教認識論における知覚論の諸問題」を選びました。

 

 これは、谷沢先生の2002年の論文「ダルマキールティに見る仏教論理学派の知覚論の直接実在論的傾向」(『インド哲学仏教学研究』第9号)に対するささやかなレスポ ンスを目指してのことです。

 

 先生はこの論文で、仏教認識論の中心人物であるダルマキールティが説いた自己認識論は、大きなアポリアを抱えていることを指摘されました。

 

 この理論を突き詰めると、従来、観念論的傾向をもつものとされたダルマキールティの認識論には、直接実在論的傾向があることになるというのです。直接実在論を攻撃し続けたはずのダルマキールティが、いつの間にか相手の立場になってるよ、というわけです。

 

 ダルマキールティ研究者にとっては、まさに寝耳に水の話で、私も最初は「そんなはずあるわけないでしょ」と思いました。そして、テキストを改めて読んでみたわけです。かなり根性いれて。

 

 結果、確かに、これは困った問題だな、と思うようになりました。躓きの石は、ダルマキールティが言う自己認識の理論の複雑さにあります。これまで研究者が整理した図式は、その一面を捉えただけだったのだと思い知りました。何事も分かりやすい話には要注意ですねぇ。

 

 というわけで、授業でこの問題を扱いながら、谷沢先生も比較の俎上にのせた感覚与件論なるものにも首をつっこんだところ、見事に泥沼にはまりました。答えのないところを考えながら、行きつ戻りつ、しどろもどろの授業だったと反省しています。

 

 でも、やってる本人は楽しかったので、「比較思想って楽しそう」という雰囲気だけは伝わったかもしれません。あらためて谷沢先生の偉大さを噛みしめつつ、「でも、先生とは違う方向で比較思想なるものの行く末を見定めなきゃいかんよね」と決意をあらたにしたのでした。

 
 まぁ、そんなこんなで授業の反省モードに入っているところ、谷沢先生の薫陶を受けた四年生が一人、東京大学大学院(インド文学・インド哲学・仏教学専門分野)へ合格したとの知らせが飛び込んきました。
 

 谷沢先生のご霊前にこの朗報を伝え、「彼もまた、先生と同じ道を、違うスタイルで歩き続ける研究者になるんですかねぇ」なんて話しかけてみました。写真の先生は、いつものようにただ笑ってるだけでしたけど、「お前よりましだよ、俺が教えたんだからな」という声が聞こえたような聞こえないような…

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第55回日本西蔵学会に参加して

2007年10月29日

 10月27日(土)、大谷大学(京都)で開催された日本西蔵学会に参加してきました。

 

 自分の研究との関連で、次の三つの発表がとりわけ印象的だったので、簡単にメモを残しておきます。

 

***

 

安間剛志(京都大学大学院)「BhavivekaとTarkajvala」


 『中観心論』の作者として知られるバーヴィヴェーカ、その注釈『思択 炎』は自注として伝承されるものの、これまでそれが『心論』と同一作者の手によるものか否かが疑問視されてきました。安田氏は、このTJ作者問題の背景を丁寧に概略した上で、同一作者説の可能性を論じています。

 故江島恵教先生が、『中観心論』講読の際、この問題の微妙さを強調されていたことを思い出しながら拝聴。作者問題を、思想内容の差から考えていこうという姿勢に共感しつつ、問題解決までの道のりの遠さをあらためて実感した次第です。

 

***

 

根本裕史(広島大学大学院):「チベット中観思想における時間論の展開―「刹那」の概念を中心にー」

 

 ツォンカパ・ロサンタクパの時間論について研究を重ねてきた根本氏による、ツォンカパ以前のチベット仏教における「時間」、特にその最少単位となる「刹 那」理解に関する発表。

 最近、ようやく資料が整いはじめたチャパ・チューキセンゲの〈刹那の分割可能性〉証明と、サキャパンディタによる〈刹那の無部分 性〉論との関連性が、興味深いものでした。

 

***

 

村上徳樹(東京大学大学院)「rang rigに関するケードゥプジェの解釈」


 ダルマキールティの自己認識論において、とりわけ問題となるのが〈外界の対象を認めた場合の自己認識〉です。この自己認識に関して、ゲルク派の学僧ケードゥプジェは、「知自身と一体となっている客体の認識」とする解釈を立て、唯識的「自己認識」との 差別化を狙っているようです。

 村上氏はこのケードゥプの理解の根拠を、ダルモーッタラの記述に跡づけ、インド・チベットに跨る、自己認識論(解釈)のアポリアを浮かび上がらせてくれました。インド仏教の文脈において、同一の問題を追及している私にとっては、きわめて刺激的な発表でした。

 

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