教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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国際ワークショップ Buddhist Philosophy of Consciousness: Tradition and Dialogue

三度目の台湾

丸テーブルの向こうにastu yathā tathā

 3月11日より12日まで、台湾の国立政治大学で開催された国際ワークショップBuddhist Philosophy of Consciousness: Tradition and Dialogueに参加・発表してきました。  台湾への訪問は、国際仏教学会、前回の国際ワークショップに続き、今回で三度目の来訪になります。今までと違うのは、今回はじめて羽田―松山空港という航路を使ったことです。松山空港は、台北市内にあるので、ちょうど福岡空港のような便利さがあります。激しい雨が降る中、タクシーで30分ほどで目指す政治大学のゲストハウスに到着しました。  翌日からのワークショップの顔合わせとして、主催の林鎮国(Lin, Chen-kuo)先生がすでに到着の参加者を台北市内の豪華なレストランへ招待してくださいました。丸テーブルの上には、次から次へと料理の山が運ばれてきます。四川風の激辛料理からウィグル風の肉料理、そしてエビの天ぷらや蒸した魚など、美味しくいただきました。最後は饅頭から、宝石のようなタピオカが入ったアイスまで。アメリカからのダン・アーノルド先生はastu yathā tathāの文字が入ったTシャツを着ての参加です。ダルマキールティの有名な偈の文句ですが、背中にはその英訳「Whatsoever」の文字。いいですねぇ、欲しい…。

プログラム

冒頭で挨拶される林先生

 今回のワークショップの運営は、もうすぐ退官される林先生の後継者・耿晴(Keng, Ching)先生がされています。アメリカをはじめとする各国から、著名な研究者が集まったのは、林先生・耿先生のご尽力の賜物だと思います。配布されたプログラムは以下の通りです。 Katsura, Shoryu 桂 紹隆 (Emeritus, Hiroshima University, Japan):Arthasaṃvedana and Svasaṃvedana in Buddhist Epistemological Tradition Funayama, Toru 船山 徹 (Kyoto University, Japan):The Genesis of *Svasaṃvitti-saṃvitti Reconsidered Mark Siderits (Emeritus, University of Seoul, South Korea):Self-Knowledge and Non-Self Moriyama, Shinya護山 真也 (Shinshu University, Japan):Dharmapāla and Kuiji on Self-awareness (svasaṃvedana) and Cognition of other minds (paracittajñāna) Birgit Kellner (Austrian Academy of Science, Austria):Phenomenology, Idealism, Both or Neither? Making sense of Yogācāra-Vijñānavāda Arguments against External Objects Christian Coseru (Charleston College, U.S.A.):Must I Be Aware That I Am Aware? Phenomenal Concepts and the Problem of Self-knowledge Ho, Chien- hsing何 建興 (Nanhua Univerity, Taiwan) & Cheng, Kai- yuan 鄭 凱元 (Yangming University, Taiwan):Self-awareness and Higher-order Thought Dan Arnold (University of Chicago, U.S.A.):Should Mādhyamikas Resist the Idea of Consciousness? Keng, Ching耿 晴 (NCCU, Taiwan):On Dignāga's Mānasa-pratyakṣa: Clues from Kuiji K.L. Dhammajoti法光法師 (Emeritus, University of Hong Kong, Hong Kong):Adhimukti, Meditative Praxis and Vijñaptimātratā Robert Sharf (UC Berkeley, U.S.A.):Knowing "Blue": Ābhidharmika Theories of the Immediacy of Sense Perception Lin, Chen-kuo林 鎮國 (NCCU, Taiwan):On Vasubandhu’s Theory of Memory Jay Garfield (Yale-NUS College, Singapore):Ten Moons: Reflections on the Structure of Consciousness in the Mirror of Dignāga's Ālambanaparīkṣā John G. Spackman ( Middlebury College):Is Meditative Experience Nonconceptual? Yao, Zhihua 姚 治華 (Chinese University of Hong Kong, Hong Kong):Body, Mind and Consciousness: Comparative Reflections Roy Tzohar (Tel Aviv University, Israel):Turning Earth into Gold: The Early Yogācāra Understanding of Experience Following Non-Conceptual Knowledge Kuan, Tse-fu 關 則富 (Yuan Ze University, Taiwan):Consciousness of Everything or Consciousness Without Object? A Paradox of Nirvana

感想など

発表の船山先生、桂先生、司会の耿先生

 この時期、国立大学は後期試験などでハードなスケジュールがあるため、残念ながら二日目の途中までしか参加することはできませんでした。しかし、そこまででも十分に刺激的な内容でした。  これまでも時々、授業や論文などで言及してきましたが、インド哲学研究・仏教研究では近年、それまでのヨーロッパ、特にハンブルクやウィーンを中心とする文献実証的な厳密なテキスト研究と平行して、北米での分析哲学を素地としてもつインド哲学・仏教研究者による哲学的なアプローチに注目が集められています。  発表者のCoseru先生、Garfield先生、Sederits先生、Arnold先生などはその中心に位置する研究者です。Siderits先生に言わせると、彼が目指すのは、いわゆる比較哲学ではなく、フュージョン哲学、つまり、思想史から切り離して、仏教のテキストも一つの素材としながら、哲学的問題を考えることにある、とのことでした。そこから考えると、私が目指すのはむしろ比較哲学--インド哲学や仏教に固有の価値を見いだすために、他の哲学的伝統との差異を明確にした上で、他の伝統とも共有可能な「素材」を提示することーーとなるでしょう。  今回のテーマconsciousnessは訳せば「意識」ですが、「意識」はそれ自体は仏教の用語で五感と異なる意(manas)による認識のことを指します。訳語の問題はかなり重要だと思いますが、ここでは、その点には深入りすることなく、現代の心の哲学で扱うconsciousnessの問題へのリンクが議論の中心になっていたように思います。つまり、私たちの知覚経験の分析において、知覚経験そのものが反省的に捉えられるのはどうしてなのか、それはローゼンタールが主張する高階の思考(Higher-order Thought)によるものなのか、あるいは仏教認識論が言う自己認識(=志向的対象の把握とその把握そのものの自覚が同時に成立する)という考え方の方にむしろ可能性があるのか、等が主軸となる問題設定です。ただし、総合討論の時間はありませんでしたので、このあたりの課題は、それぞれが持ち帰り、最終的な論文の段階でフィードバックされることになりそうです。  しかし、哲学的な問題に関心が向けられるあまり、文献実証的な部分が置き去りにされてしまっては元も子もありません。桂先生や船山先生は、むしろ文献実証的な立場から、ディグナーガの議論に登場するsarvathā gatiという表現の問題、また、護法に帰せられる四分説がディグナーガのインド仏教内における伝統からはその存在を保証する根拠が皆無であること、などの重要な点を指摘されました。同じく耿先生の発表も『成唯識論』と基の注釈を丹念に読みときながら、ディグナーガが言う意知覚を理解するために、アビダルマの伝統や中国の注釈文献の情報が効果的に活用できることを示すものでした。また、林先生の発表もディグナーガの〈想起からの論証〉を理解するために、『倶舎論』「破我論」に対する普光などの漢文注釈文献(日本の快道のものも含む)の議論が有益な示唆を与えることを論じておられます。私は、護法の『唯識二十論宝生論』の最終個所(他心智を論じる個所)を分析し、それがダルマキールティの『他相続論証』のヨーガ行者による他心智の記述とほぼ共通の内容を含むものと読めるのではないか、という点を指摘し、さらにそれが基の『二十論述記』では別の形で受容・展開されていくことを論じました。最後におまけで、ネーゲルの議論を出したのが運のつきで、質疑応答が何だかよくわからないことになってしまったわけですが…。  文献実証的でありながら、同時に哲学的な議論にも応用できる形で、鋭い分析を行ったのが、Kellner先生です。自己認識を証明するためにダルマキールティが様々な論証を提示していますが、その中の「類似性からの論証」(これまでほぼ無視されてきた、重要な論証です)と「認識からの論証」(samvedana論証)に分析を加え、志向的対象を必ずしも前提とする必要のない、intransitiveな認識(自らで輝くのみ)の可能性を指摘しました。現代の心の哲学との対話を重視しすぎると、どうしてもそこと共通する要素の方にのみ関心が向けられてしまいますが、インド仏教に特有の議論を紹介することで、健全な対話へのチャンネルを用意するところが流石です。    この成果はいずれ出版されるようなので、そのときに、一連の議論の全貌は明らかになると思います。方法論を含め、今後の仏教研究の在り方を考えさせられる二日間でした。北米の研究者は勢いがあるので、目が離せませんね。

政治大学近辺の夜の風景

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