教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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国際ワークショップ「知覚の比較哲学」報告(1)

 2015年11月14-15日の両日にわたり、信州大学中央図書館2階セミナー室を利用して、国際ワークショップ「知覚の比較哲学」が開催されました。科研費(挑戦的萌芽)の企画ですが、人文学部との共催で盛会のうちに幕を閉じることができました。発表者・コメンテーターの皆様、ポスター作製等でご協力いただいた方々、図書館の方々、当日の手伝いの学生の皆さん、そして、ご来訪の皆様に感謝もうしあげます。  以下、簡略ながらこの二日間の報告です。

ワークショップ初日(14日)

 生憎の雨となりましたが、会場には40名以上の参加者が集まり、熱気にあふれる議論が交わされました。  最初にエリ・フランコ先生(ライプチヒ大学)が基調講演に立ち、今は亡きインド哲学・比較哲学の泰斗W・ハルプファスの言葉を引用しながら、単に二つの異なる思想を対置させ、その特徴を分類するだけでは比較哲学とは言われないこと、比較哲学が「哲学」であるためには、そこに「自己理解」(self-understanding)のための問いがなければならないこと、けれどもそれを実現することは容易ではないことを説明されました。  また、フランコ先生は具体的にジョン・ロックとダルマキールティの知覚論を比較しながら、表面上の類似性の裏側にある文化的背景の差異について考察を加えられました。  続いて、カリン・プライゼンダンツ先生(ウィーン大学)は、「初期インド思想史における知覚の阻害要因」(Impediments to Perception in the Early History of Indian Philosophy)と題して、〈アートマンの知覚不可能性〉という論題からはじめて、文法学書である『大注解』(Mahābhāṣya)で提示される6種の知覚阻害要因、そして『サーンキャ頌』第7偈が説く、根本原質が知覚され得ない8種の理由まで詳細な分析を示されました。

 片岡啓氏(九州大学)の発表題目は、「夢、銀、そして幻術――インド誤知論の概要」(Dream, Silver, and Magic: A Brief Sketch of Indian Theories of Erro (vibhrama))です。  マンダナ・ミシュラとバッタ・ジャヤンタが整理した誤知の体系に従い、(1)「無の現れ」説(=一部の仏教徒が説く形象虚偽論)、(2)「自身の現れ」説(=一部の仏教徒が説く形象真実論)、(3)「別様の現れ」説(=バッタ派、ニヤーヤ学派の定説)、(4)「現れの無」説(=プラバーカラ派の〈想起の亡失〉説に基づく考え)の4説の概要が示されました。インド哲学の議論の中でもとりわけ難解とされる個所ですが、それをここまで明快にまとめられたのはさすがです。  インド哲学のみならずアジア文化に関して多方面で活躍しておられるフィリス・グラノフ先生(イェール大学)は、12世紀の懐疑論者シュリーハルシャが諸学派の知覚に関する定義に対して種々の論難を与えていることから、その概要を示されました。

 初日の締めは、岩崎陽一氏(日本学術振興会特別研究員)の「論理学者は音楽を楽しんでいるか? ニヤーヤ学派が構築する世界とそれを分解する認識について」(Are Logicians Enjoying Music? Nyāya’s Structured World and Destructuring Cognition)と題する発表でした。  ニヤーヤ学派では知覚には概念の介在しないもの(無分別知覚)と概念の介在があるもの(有分別知覚)の両者があることを認めます。しかしながら、研究者の中には、セラーズの〈所与の神話〉の議論に基づきながら、無分別知覚の必要性に疑問を投げかける人たち(A・チャクラバルティなど)、いや、やはり無分別知覚は必要なのだと論じる人たち(S・フィリップスなど)がいて、両者の論争が続いているとのこと。このあたりは、現代の知覚の哲学における概念論者と非概念論者の対立を彷彿とさせます。  しかし、このニヤーヤ学派の議論が興味深いのは、「命題における主語(被限定者)の認識よりも述語(限定者)の認識が先立つ」という前提から、主語ぬきの述語、運動する主体ぬきの運動そのもの、虚空という実体ぬきの音そのものの認識がある種の〈非概念的な知覚〉と認められるという点にあります。    発表の後は人文ホールに移動して懇親会。旧知の人々の交流、新たに知り合う人々の交流、学生たちの交流、それぞれの輪が広がりました。

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