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もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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書籍紹介 一郷正道著『ハリバドラの伝える瑜伽行中観派思想』(東本願寺)

目次

8月に龍谷大学で開催されたラトナーカラシャーンティ関連の研究会にて、桂紹隆先生を通して、シャーンタラクシタの『中観荘厳論』の研究で名高い一郷正道先生より、東本願寺の2015年安居次講、『ハリバドラの伝える瑜伽行中観派思想』をご恵贈いただきました。 目次 はじめに 第一章 学説綱要書に見られる論師 第二章 先行研究から 第三章 瑜伽行中観派の論師たちの思想  第一節 ジュニャーナガルバ  第二節 シャーンタラクシタ  第三節 カマラシーラ  第四節 ハリバドラ まとめ 資料 和訳『八千頌般若経解説・現観荘厳の光』

修士時代の思い出

私が大学院の修士時代、当時の指導教官であった江島恵教先生が演習で講読テキストとして取り上げられていたのが、まさにこのハリバドラの『現観荘厳の光』でした。 当時は、このテキストの重要性も分からないまま、必死になってサンスクリットの辞書を引きながら、どれだけ考えてもよく分からない複雑な議論に頭を悩ませていました。 演習の予習も行き詰まり、とにかく思想背景を理解するしかない、と関連する論文や学術書を読んでいたとき、一郷先生のご著書、そして梶山雄一先生、松本史郎先生の論文に出会ったのです。 この三名の先生方は、1980年代、シャーンタラクシタの思想的な立場をめぐって、互いに異なる見解を提示されていました。 梶山先生がお亡くなりになったこともあり、論争は幕引きになったかに思えましたが、30年あまりの年月が過ぎた今、一郷先生の本書が登場したことは感慨深いものがあります。

『中観荘厳論』第91偈

梶山・松本両氏の解釈上の対立は、シャーンタラクシタの『中観荘厳論』第91偈に対してでした。 rgyu dang ’bras bur gyur pa yang || shes pa ’ba’ zhig kho na ste || rang gis grub pa gang yin pa || de ni shes par gnas pa yin ||MA91|| 松本訳:因と果の結果としてあるものも、知だけである。すなわち、自ら成立しているものは知において存在しているのである。 梶山訳:原因と結果としてある(世俗の事物)もまさに知識にほかならない。自立的に存在する(とされる外界の対象)は(実は)知識の中にあるのである。 これに対して、一郷先生が今回、新たに提示した訳は次の通りです。 一郷訳:原因や結果としてあるものも、ただ知識にすぎない。(根拠なくして)自ら成立しているもの、それは知識としてある。 問題は、この詩節がシャーンタラクシタの思想的立場を示すものか否か、そして、ここで論じられる内容は、有相唯識説なのかどうか、というところにあります。 一郷先生が今回、新たに提示された説は、これはシャーンタラクシタの思想的立場を示してはおらず、そこで説かれる内容は、有相唯識と無相唯識の両説にわたる、というものです。 この解釈を支えるものこそ、江島先生が大学院の演習テキストとされた『現観荘厳の光』だったわけで、いまあらためて、ハリバドラのテキストを読んでみたくなりました。

瑜伽行中観派研究の未来

シャーンタラクシタの思想的立場はいかなるものか、「瑜伽行中観派」という呼称はどこまで妥当し、どれだけの論師に適用されるべきものなのか、そして、空の思想を説く中観派の人たちにとって「心」とはいかなる存在だったのか、さまざまなことを考え直すための重要な一石が、本書によって投じられました。 1980年代のあの知的刺激に満ちた議論がまた開始されることになるのかもしれません。 しばらくは瑜伽行中観派の研究から目が離せなくなりそうです。

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