教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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国際シンポジウム Philosophy across Cultures 報告

筑波大学、再び

3月5日(木)、6日(木)の両日、筑波大学にて国際シンポジウム「文化を横断する哲学」に参加し、発表してきました。 筑波大学人文社会国際比較研究機構(ICR), 人文社会系海外教育研究ユニット招致プロジェクトの主催で行われたシンポジウムの副題は「伝承、翻訳、そして変容」(Transmission, Translation and Transformation)。この企画の中心である吉水千鶴子先生の「趣旨」を引用します。いつもながらの名文です。

趣旨(吉水千鶴子)

 哲学は、民族、社会、国家、文化の多様性を越えて普遍的なものであると考えられている。文学作品は、その言語の語感、響き、そこに具象された文化の繊細さによって翻訳不可能と判ぜられる場合もある。対して、哲学は抽象的な思考を論理的に叙述するものであるから、言語や文化的コンテクストの違いを越えて伝達可能であろう、と。だが、一方で「比較思想」「比較哲学」という語(あるいは学問ジャンル)が示すように、異なった地域と伝統から生まれた哲学には何らかの「相違」があることが前提される。この前提は「西洋哲学」「東洋哲学」という枠組みにすでに含意される。それはさらに「ギリシア哲学」「中世哲学」「近代哲学」「ドイツ哲学」「フランス哲学」「中国哲学」「インド哲学」などというように、時間と空間によって無限に細分化されよう。区分することによってのみ比較は可能である。比較をすれば、類似と相違が発見される。かくして我々は人間の営みである思考とその体系化である哲学に普遍性と言語的歴史的社会的文化的特殊性を期待し、かつ実際に見いだして、その両者を往来してきたのである。  もし我々が上述のような枠組みや区分を固定化したままならば、永遠にこの振り子の往復運動を繰り返すことになるだろう。しかし、この固定化は実際の思想史には当てはまらない。実際の思想は流れている。民族の境、言語の境、国境を越え、人の流れ、人と人、人とテキストの出会いによって、思想は伝えられる。ドイツで生まれた思想がフランスに輸入され、その影響で新しい思想が生まれたとしよう。そのとき「ドイツ哲学」が「フランス哲学」になったのでもないし、「フランス哲学」が「ドイツ哲学」になったのでもない。何かが伝承されながら、適応し、変容したのである。そしてこのような思想の伝承や翻訳には常に困難と誤解と飛躍がつきまとう。誤解が新しい思想を生み出すきっかけとなることもある。この伝承と適応と変化のダイナミックを分析することによってこそ、真に「比較思想学」的な問い―多様な哲学思想がもつ普遍的な意義とは何であるのか―を明らかにできるのではないだろうか。  本シンポジウムは、2012年7月にハンブルク大学で行われた国際シンポジウム「仏教文献の異文化間伝承:翻訳の理論と実践」(Cross-Cultural Transmission of Buddhist Texts: Theories and Practices of Translation) ならびに2014年3月に筑波大学で行われた比較哲学ワークショップ「仏教認識論と比較思想の可能性」という二つの会議の理念を継承し、仏教や東洋思想に限らず、広く思想の「トランス」(trans-)―伝承、翻訳、変容―という事象が思想の発展にもたらすものについて考えることを目的とする。とくに次の問題に焦点をあてたい。  宗教を含む様々な思想の伝承者、翻訳者は、そこに横たわる何らかの相違―言語、社会、文化など―を越えて(tans-)、オリジナルの思想を「より正確に」あるいは「よりよく理解できるよう」伝えようとする。「正確さ」と「よりよい理解」はしばしば両立しない。また、伝えようとするものが、彼らが「正しいと思うオリジナルの意味」すなわち「解釈」である場合もある。さらに思想の受容者は、受け取ったものから好ましく理解できるもののみを選択して受容する。とすれば、受け渡される思想はその過程で幾重にも変貌しうるのではないか。それでも維持されるべき本質的なものがあるとすれば、それは何であろうか。 この問いは、人類が様々な哲学や宗教を育んできたその多様性と普遍性についての上述した「比較思想学的」問いでもある。適応する文化的コンテクストの範囲を広げるとき、思想は多様化しながらも普遍的価値を持ち続ける、とすれば、それでは我々は多様な哲学をもちながら、ひとつの哲学をもっているのだろうか。ひとつの哲学とは何であろうか。それはひょっとすると「考える」という作業そのものなのかもしれない。 吉水千鶴子

プラグラム

3月5日 第1部「文化を横断する仏教思想」(Buddhist Thoughts across Cultures) "Are Philologists the Modern Curators of Buddhist Philosophy?" by Dorji Wangchuk (Prof., the University of Hamburg/ Tsukuba, Buddhist Studies) "Multivalent Buddhist-Philosophical Terms in Translation: The Case of Akanistha" by Orna Almogi (Dr., the University of Hamburg, Buddhist Studies) "Returning to the Madhyamaka Divide with Dignaga: Implications for Transmission" by Anne MacDonald (Dr. Austrian Academy of Sciences, Buddhist Studies) "Dharmakirti in Thirtheenth Century Tibet" by Leonard van der Kuijp (Prof., Harvard University, Buddhist Studies/ Tibetology) 3月6日 第2部 「比較の観点から見た哲学」(Philosophies in Comparative Perspectives) "Adhyavasaya and Imagination" by Shinya Moriyama (Shinshu University) "What Do We Do When We are Engaged in Comparative Philosophy?--Variations on Brandomian themes" by Naozumi Mitani (Shinshu University) "Jesuits Chinese Philosophy Information and Establishment of the Sinology: Focusing on Confusian Classic Latin Translation and Chinese-Manchu Commentaries" by Yoshitsugu Igawa (Tsukuba University) "Jesuits Encounter with Japanese Buddhism in 16th century - In the case of "NIHON NO KATEKIZUMO (The Catechism in Japan)" by Naoki Kuwabara (Prof., the University of Tsukuba, Medieval philosophy/ Christianity)

感想

 昨年に続き、同僚の三谷先生と二人での参加。今回は規模が拡大して、一気に国際的なものになってました。  信州大学を卒業した横山君が受付にいたり、小川君が発表を聞きに来てくれたり、筑波で活躍する卒業生たちに会えたのも嬉しかったですね。  初日は、筑波で教鞭をとるハンブルク大学のワンチョク先生の基調講演。続いて、同じくハンブルク大学のアルモギ博士が密教文献での色究竟天の解釈について発表されました。  マクドナルド博士は、最近、Prasannapadaの第1章校訂をされたことで有名ですが、チャンドラキールティのバーヴィヴェーカ批判の個所から、その論理学的要素の分析を示されました。  ファン・デア・カイプ先生は、チベットにおける『プラマーナ・ヴァールッティカ』の受容について、詳細な情報を提示されました。  二日目は、昨年度のシンポジウムの延長で、私は仏教認識論におけるadhyavasayaをカントの構想力と比較してみよう、という(無謀な)試み。でもって、三谷先生が、「そういう試みにそもそも意味あるんですか? いや、そもそも意味があるかどうか問うためには、異なる伝統にあるテキストの解釈行為を反省的に捉えてみなければなりません」という比較思想の方法論そのものに対するメタ的アプローチを加えてくれました。  筑波大学の井川先生は、革命後のフランスでの中国哲学の受容の際に、満州語訳の『中庸』などのテキストがどのように利用されたか、という興味深い発表をなされました。先生からはその後、ご著書『知は東から 西洋近代哲学とアジア』(石川文康・井川義次編、明治書院)をご恵贈いただきました。ありがとうございます。  最後に、桑原先生はイエズス会宣教師ヴァリニャーノによる『日本のカテキズモ』で仏教思想がどのように紹介されているのか、を説かれました。興味深いことに、イエズス会の人たちは浄土真宗の教えがルター派の見解に近い、という感想をもっていたようです。親鸞とルターというのは、比較宗教のテーマですが、そのことはすでに16世紀の宣教師に喝破されていたんですね。  次回は...どうなるんでしょう? 比較哲学、なんだか盛り上がってきましたね。

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