教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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第17回 国際仏教学会(IABS)会議報告(2)

21日(木曜日)

認識論部会

 会議も三日目を迎えると、多少の疲れが出てきます。時差ボケが続き、毎朝、午前2時に目が覚める毎日。そんな参加者を配慮してのことか、この日の午後はExcursionが組まれています。シェーンブルン宮殿を訪ねるもよし、オーケストラの演奏を聴きに行くもよし、四種類のプログラムがあります。  とはいえ、この日の午前中から、いよいよ私も参加しているパネル「アジアを横断するプラマーナ」がスタートします。ライプチヒ大学のエリ・フランコ先生(E. Franco)、韓国・東国大学のウー・ジェソン先生(J. Woo)が中心となり、玄奘によりインドより中国・朝鮮・日本にもたらされた因明学の伝統を、インド仏教論理学とのつながりの中で再発見しようとする試みです。  桂紹隆氏は、現在、英訳を準備されている『方便心論』(著者はナーガールジュナに帰せされる)の議論を分析していかれながら、そこには五支作法等の論理学的な見解は明示されていないことを指摘されました。  ナーガールジュナの弟子であるアーリヤデーヴァ(提婆)に帰せられる『四百論』の校訂者として名高いカレン・ラング先生(K. Lang)は、ミーマーンサー学派による全知者批判に対抗するバーヴィヴェーカ(『般若灯論』)とチャンドラキールティ(『四百論注』)の議論を比較しながら、その論法のスタイルについての考察を展開されました。  ミーマーンサー学派に関しては、ローレンス・マクレー氏(L. McCrea)とジョン・テーバー氏(J. Taber)が〈自律的真理論〉に関するスチャリタミシュラの見解、また、クマーリラの議論とダルマキールティのそれとの比較を論じています。かなりテクニカルな議論であったため、正直、ほぼ理解できていません。  ホルスト・ラシッチュ氏(H. Lasic)は、最近出版されたジネーンドラブッディ著『プラマーナ・サムッチャヤ・ティーカー』の校訂者です。彼の今回の発表は、そこから再構築されるディグナーガの『プラマーナ・サムッチャヤ』(集量論)、そしてそこで引用されるサーンキャ学派の『シャシュティ・タントラ』(六十科論)と、さらにそこから再構築される『シャシュティ・タントラ』のテキストについて、というもの。文献学の真骨頂でしょう。  エリ・フランコ氏(Eli Franco)は、クラッサーが提示したダルマキールティの年代論、特にバーヴィヴェーカとの先後関係について、文脈等を考慮に入れる限り、その仮説は支持されないことを論じました。クラッサーの仮説の通り、ダルマキールティの年代を6世紀に置くとすれば、なぜ玄奘はその存在に沈黙したのか、チャンドラキールティが一切の言及をなしていないのはなぜか、等の疑問が起きるとのこと。昨日の渡辺氏の発表と合わせて、クラッサー仮説の検証が今後の課題となりそうです。

22日(金曜日) 午前

写真提供:片岡氏より

 最初にBuddhist Phenomenologyの著者として名高いダン・ルストハウス氏(D. Lusthaus)が、護法(ダルマパーラ)の『観所縁論釈』(大正蔵1635)について、特にその討論的な構成について詳細に論じました。  次が、私の番。題名はOn dharmisvarūpaviparītasādhana。はい、これだけでは何のことやら、ちんぷんかんぷん。  つまり、仏教論理学の入門書として知られる『因明入正理論』(Nyāyapraveśa[ka])で説かれる四種類の矛盾因(四相違)の一つである、〈有法自相相違因〉について考える、という内容です。あれ、これでもまだ何のことやら、って感じですね。  しかし、このテキストを学び、また、このテキストを授業で扱った人ならば、誰しもが疑問に思うはずの箇所なんです、きっと。  そこで、ディグナーガ、ジネーンドラブッディ、ダルマパーラ、慈恩大師基、ハリバドラスーリといったインド・中国の注釈者たちの見解を比較検討しました。この個所で悩んだ人ならば、きっと理解してくれるはず?   ちなみに、護法のテキストにダルマキールティのPV 1.205に等しい内容があることを指摘した点が、さりげなく重要だったはずですが、気づいてくれた人はどれくらいいたんでしょう?  発表が終わって、ようやくリラックスして他の方々の発表を聴講することができました。続く、Lin, Chen-kuo氏は、台湾でお世話になった因明研究の大御所。地論宗におけるプラマーナの扱いについて、新出の資料に基づきながら、彼らが認めた四つのプラマーナ(四量)――知覚、推論、信頼ある人の証言、聖典――が、その修道論とどう関連しているのか、を明らかにされました。  東国大学のWoo, Jeson氏は、ラトナキールティ著『刹那滅証明:肯定的遍充関係篇』の研究者として知られていますが、同氏は今回、禅のテキストに登場する様々な比喩的表現に着目し、それを仏教論理学における実例(dṛṣṭānta)の機能と比較する、という興味深い発表をされました。  Lin先生の下で学んでいるポーランド人研究者ジェイコブ:ザモルスキ氏(J. Zamorski)は、仏教論理学ならびに因明文献に登場する二種の否定概念――prasajyapretiṣedhaとparyudāda、遮詮と止濫――について、言語哲学的な分析から、翻訳上の問題まで、詳論されました。ちなみに、「アジアを横断するプラマーナ」というタイトルに相応しい発表は、Zamorskti氏のものと私のものだけだったような気が…。二つの言語圏・文化圏を扱う研究の難しさが痛感されます。

22日(金曜日)午後

 さて、午後はYao, Zhihua氏とChu, Junjie氏が共に、意識(manovijñāna)とその対象のことを問題にしていました。確か、前回のIABSでも同じようなテーマが話題になってましたが、私にはまだ問題の本質が見えてきません。『成唯識論』等をしっかり読んでいくと、きっと何が問題なのか、が分かるんでしょうけど…。  また、韓国仏教についても、Lee, Sumi氏とPark, Jin Y氏がそれぞれ新羅の大賢(8世紀)、新羅の華厳宗の祖・義湘(8世紀)を中心に、真諦(Paramārtha)との比較、あるいは一即多の華厳の論理をプラマーナ論と比較するという観点から考察されました。  上海で因明学の研究をしているTang, Mingjun氏は、玄奘の唯識比量を中心に、その解釈の伝統を詳細に論じられました。Tang氏の発表は、私の発表とも密接に関わるもので、特に、敦煌文書から浄眼の『因明入正理論略抄』での有法自相相違因、有法差別相違因の解釈について紹介してもらえたのは、有り難い限りでした。  最後に、グレゴール・パウル氏(G. Paul)は、日本の法相宗の僧侶・護命の紹介する因明学の発表をなされました。同氏の関心は、インド論理学・因明とアリストテレス論理学との共通性、すなわち、普遍的な論理思想にあります。その点について、質疑応答では、「類・種という概念間の包含関係で、〈属性保持者―属性〉(dharmin-dharma)の主張命題を解釈できるのか否か(特に、「あの山に火がある」等の命題)」、「演繹的な論理学であれば、形式のみで妥当性が判断されるが、インド論理学にもそのような〈形式のみから妥当性を判断する〉という考えがあったのかどうか」等の興味深い問題が提示されていました。

23日(土曜日)

 いよいよ最終日となりました。この日は「中道と認識論という二頭の獅子の首に乗って」パネル(前半のみ)の聴講です。  最近、『プラサンナパダー』の校訂をなしたアン・マクドナルド氏(A. MacDonald)は、チャンドラキールティの視点からの認識論・論理学に対する評価を概観しました。次に赤羽律氏は、ジュニャーナガルバの二諦説を論じられました。最後に、パスカル・ユゴン氏(H. Pascale)は、12世紀に活躍したチャパ・チューキセンゲの存在論を論じました。チャパの師である翻訳官ゴク・ローデンシェーラップは、ダルマキールティの立場を中観派として理解した人物ですが、チャパの方では、ダルマキールティの二諦説をいずれも世俗的なものとみなし、むしろ、外界実在論の立場こそを最終的なものと見なしたようです。  以上が、今回、聴講した発表についてのメモです。パワーポイントのみを使用した発表が多く、手許に資料がないために、不十分な紹介になっている点はご寛恕ください。

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