教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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ダルシャナ科研合同研究会in松本

2012年度合同研究会 

 昨年度に引き続き、今年も丸井浩・桂紹隆両教授が組織された「インド哲学諸派における<存在>をめぐる議論の解明」、略称、ダルシャナ科研・松本合宿が開催されました。名簿によれば、日本各地でご活躍中のインド哲学研究者が27名、信州大学に集結したことになります。多くの学生の皆さんが夏休みを満喫している中、人文ホールでは<存在>をめぐるサンスクリット語が飛び交っていたわけです。

1日目 研究発表

池端維人「Vedānta諸派のvācārambhaṇam理解―因果関係、世界の実在性を巡るVedānta各派の攻防―」 上田真啓「ジャイナ教文献に見られる存在のあり方―ニクシェーパにおけるdravyaとbhāva―」 片岡啓「シャイヴァ・オントロジー――神・人・世界――」 和田嘉弘「新ニヤーヤ学派における非存在(abhāva)の成立要件――反存在(pratiyogin)の観点から――」  池端氏の発表は、ヴェーダーンタ学派の根本聖典『ブラフマ・スートラ』2.1.14(tadananyatvam, ārambhaṇaśabdādibhyaḥ)に関するシャンカラ、バースカラ、ラーマーヌジャ、マドヴァ、ニムバールカの注釈を比較しながら、それぞれの存在論的な特徴を浮き彫りにしたものでした。  上田氏の発表では、ジャイナ教の認識論とカテゴリー論を結びつける重要な概念であるニクシェーパをテーマとして、AnuyogadvārasūtraからTattvārthādhigamasūtraへと至る過程で、この概念が認識論的な役割を強くもつように至る経緯が明らかにされました。  片岡氏は、サディヨージョーティス(紀元後675-725頃)のシャイヴァ・シッダーンタの三元論について、その背景となるインド存在論の概略とともに、シヴァ教の世界観をまとめられました。個人的には、シヴァ教神学における世界創造に関する議論が面白かったですね。  和田氏は、ウダヤナ・ガンゲーシャからラグナータまでの新ニヤーヤ学派における非存在(無)の定義の変遷を明確にされました。〈無〉をめぐる問題は、インド存在論を語る上で避けることのできなテーマです。この発表では、クマーリラの〈無という認識手段〉、ダルマキールティの〈非認識〉論を考える上でも貴重な視点が提示されたと思います。

2日目 八木沢先生のご講演

 二日目には、現在、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校で教鞭をとられている八木沢敬先生をお迎えして、分析哲学における存在論を講演いただきました。  「存在とは何か?」と「何が存在するのか?」という二つの問いを区別することからはじまり、前者に関しては、アリストテレス以降、フレーゲによる(数理)論理学の刷新が計られ、存在量化子(existential quantifier)が生み出されたことの意義が語られ、また、後者に関しては、個物・性質・関係といったカテゴリーの意味、そして科学と哲学との関連が語られました。  この講義に続いて、インド哲学関係の参加者とのディスカッションが繰り広げられましたが、その中では特に、否定をめぐる議論の応酬が興味深かったですね。インド哲学で頻出する〈名辞の否定〉をどのように考えるべきなのか、それは結局のところ、〈文(命題)の否定〉に還元されるものなのか、また、それと関連して、ラッセルの確定記述(definite description)に関する議論とディグナーガの〈アポーハ〉論とがどう関係するのか、等のテーマが熱心に論じられました。  今回の大きな成果は、時代も地域も異なる二つの哲学の伝統の間で〈対話〉が成立し得た(あるいは、その可能性が見えた)ということです。八木沢先生が区別された二つの問いは、比較存在論のパイオニアであるハルプファス(W. Halbfass)の著書のタイトル、On Being and What There Isにも対応しています。ハルプファスの遺業を継承しつつ、私たちは今、ワークショップやパネル・ディスカッションなどの形で、様々な哲学の伝統と〈対話〉するチャンネルを開き、相互に乗り入れ可能な〈議論領域〉を模索する時期に来ているのだと思います。

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