教員紹介

もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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2011 ダルシャナ科研松本合宿

インド哲学 in 松本

 去る8月24日から25日にかけて、信州大学人文ホールにて、日本のインド哲学研究者が集うセミナー合宿が開かれました。東京大学の丸井浩先生がプロジェクト・リーダーを務める、インド哲学における存在論・カテゴリー論の展開を解明するための共同研究の合宿です。  「ダルシャナ」とは、業界用語で「インド哲学」を意味するものと理解してもらえればいいでしょう。  なぜ松本なのか?「とりあえず日本の真ん中だから、みんな集まりやすいし、東京などに比べれば、少しは涼しいでしょう」という理由かどうかは定かではありませんが、これだけ有名どころの先生方・研究者の皆さんが信州大学に集まるというのも、なかなかあるものではありません。しかもテーマは存在論!で、でかい…。

プログラム

桂紹隆  基調講演 丸井浩  「ハルプファスの研究成果から、<存在>をめぐる議論の諸相をさぐる」 藤永伸  「ジャイナ教存在論概観」 加藤隆宏 「バースカラの無明論批判と別異非別異論」 李宰炯  「バルトリハリの時間論」 江崎公児 「ウダヤナの滅無因説批判について」 鈴木孝典 「ヴァイシェーシカ学における存在論の意義」  以上の発表に加えて、全体討論が行われました。

個人的な感想

 いずれの発表も刺激的な内容であったわけですが、「存在論」という単語を聞くとどうしても思い出してしまうのが、ハイデッガーの名前です。  「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか」という有名な一文で書き出された『形而上学入門』(訳は平凡社ライブラリーの河原栄峰訳による)において、ハイデッガーは存在を規定するために、次のような四つの対立軸を立てました。 (1)存在と生成 (2)存在と仮象 (3)存在と思考 (4)存在と当為  「と」で結ばれた、この四つの概念と「存在」との差異をめぐって、ハイデッガーはギリシア哲学から現代の人間観にまでいたる、徹底的な思索を行ったわけですが、この四つの対立軸は、インド哲学における「存在」を考える上でも非常に有益であろうと思われます。  (1)の存在と生成については、江崎氏の発表が示唆したように、仏教の刹那滅論と存在との関係が問われるべきでしょうし、(3)の存在と思考については(ここが一番、難解な個所ですが)、インド的なロゴス(言語)と存在との関わりが問題になってきそうです。李氏の発表が、その糸口を提示してくれています。  また、今回の発表では取り上げられていないものの、(2)の存在と仮象については、インド哲学におけるvyakti, pratibhāsa, prakāśaなどの概念と存在とのつながりが考察に値するでしょう。  そして、(4)の存在と当為については、まさにミーマーンサー学派が追及したダルマ(ヴェーダの規定における当為)と存在との関連の解明が期待されるところです。  

存在論とカテゴリー論

 桂氏の基調講演で述べられたことですが、この共同研究が目指すところは、(1)インド哲学諸派において「存在」に関するコンセンサスは何か、(2)インド哲学諸派において共通に前提とされる「カテゴリー」は何か、という二つの問いに向けられることになりそうです。  しかしながら、この二つの問い、あるいは、存在論とカテゴリー論という二つの「論」の間には、大きな溝があるようにも思われます。存在論の問いとしては、先に述べたような、ハイデッガー的な問いにインド哲学としてどう答えることができるのか、あるいはその限界が露呈するのはどこなのか、を見定めることが課題となりますが、カテゴリー論の方にはどういったアプローチが可能なのか、まだ先が見えないところがあります。全体討論でも、この二つの関係が問題とされていましたが、インド哲学の枠を超えて、さらに広がりのあるテーマにもなりそうです。今後の熱い議論が期待されます。  参加された皆さんの中には、松本ははじめてという方も多かったのですが、個人的に聞いた限りでは、人文ホールや浅間温泉など、非常に好評でした。というわけで、来年もまた松本で!ということになりそうな雰囲気でございます。うーん、しばらく、松本の夏はサイトウキネンとダルシャナで熱くなりそうですねぇ。 補足:東洋思想講読を受講される皆さんへ  以上の議論は、昨年から講読しているW. Halbfass, On Being and What There Isと密接に関係しています。なにやらよく分からない本を読んでるな、なんて思わずに、その議論の広がりを、この報告から感じ取ってもらえるとありがたいです。

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