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もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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虫の文字

ブッダの言葉は虫の文字?

 2006年にウィーン大学に提出した博士論文の出版準備が大詰めです。せっせと索引作成などをやってますが、最近、思わぬ見落としがあったことに気づきました。  ブッダが私たちを正しく導いてくれる指導者であることをどのようにして確認したらよいのか、という疑問をめぐって、プラジュニャーカラグプタは「私たちが知覚や推理を駆使して確認できる対象をその人が述べているのであれば、その人のことを信頼して実践に踏み出しなさい」というようなことを答えます。  まぁ、ここまでは彼のお師匠さんであるダルマキールティも言っていることですが、問題はその次です。  「仮にブッダが教えた諸行無常などを自分たちの認識で確認できたとしても、そのことをブッダが直観していたかどうかなんて確定できないではないか」(PVA 51.33意訳)  ブッダの教えは彼自身の覚りに基づかない可能性もあるじゃなないか、という反論です。つまり、自分では理解してないのに、たままた口にしちゃった言葉が偶然的に正しかったという可能性もあるんじゃないの、というなかなかskepticalな反論を想定しています。  答えが気になるところですが、ここでタイトルの「虫の文字」が登場します。注釈者のヤマーリという人が、この個所に対して「彼の教えは虫の文字のようなものになってしまう可能性があるからだ」(D 44a1, P 52a5–6: de'i nye bar bstan pa ni srin bu'i yi ge bzhin du 'gyur srid pa'i phyir ro)とコメントしているのですが、この「虫の文字」って何なんだ?  同じ「虫の文字」が中観派のバーヴィヴェーカの『中観心論』9章152偈(Cf. 川崎信定『一切智思想の研究』、春秋社、p. 180)に登場するところまでは分かっていたのですが、その典拠が当時の私には分かりませんでした。

文字と仏教

 この典拠についての情報は、先日、偶然、手にとった春秋社の月刊パンフレット『春秋』(2011年1月号)の巻頭を飾る師茂樹さんの「虫食いの跡が文字に見えることについて」から得ることができました。  現在、多方面で活躍されている師さんですが、私が財団法人東京大学仏教青年会で働いていたときに、お隣の大正新修大蔵経テキストデータベースの事務所でお仕事されていたんですね。仏青時代の思い出はとりあえずおいておくとして、この師さんの論考から『涅槃経』に次のような話があることが分かりました。  ある国に無能な王様がいた。その国には病気についての知識がない愚かな医者がいて、どんな病気にも牛乳を薬として処方していた。  ある日、その国に遠方より賢い医者がやってきて、王様に気に入られた。賢い医者は、愚かな医者が処方していた牛乳の服用を厳禁し、違反したものは死刑にするよう、王様に命令させた。一方で、病気に応じた様々な薬を処方したので、病気になる国民が減った。  ところがある日、王様が病気にかかったときに、賢い医者は牛乳を飲むように診断した。王様は賢い医者に「なぜ以前は厳禁していた牛乳を飲ませるのか」と質問した。その時、賢い医者は、  「虫が木を食べた跡が偶然文字のようになったとしても、その虫にはそれが文字かどうかがわからないように、愚かな医者も乳が毒にも薬にもなることがわからなかったのです……」 と答えた。(師茂樹「虫食いの跡が文字に見えることについて」p. 1f.より引用)  師さんはここから言語と文字をめぐる興味深い考察に入っていかれますが、いやぁ、ここにありました。『涅槃経』からヤマーリまでつながる導きの糸を教えてもらい、本当に感謝です。  

ウィンストン・チャーチルを描く蟻

 最後におまけで、パトナム話を加えておきます。ヒラリー・パトナムの『理性・真理・歴史』(野本和幸他訳、法政大学出版局)の第一章は「水槽の中の脳」。やたら有名な話ですが、その論文の冒頭は次のようにはじまります。  一匹の蟻が砂地をはっている。はいながら砂に線をひく。まったくの偶然で、ひいた線が曲がって交わって、しまいには、いかにもウィンストン・チャーチルの漫画らしく見えるようになる。蟻はウィンストン・チャーチルの絵をなぞったのか。蟻はウィンストン・チャーチルを描いた絵をなぞったのか。  (中略)  他方、線がWINSTON CHURCHILLという形になったとせよ。そして、これがまったく偶然だったと(起きそうもないことなのは無視して)仮定せよ。そのとき、WINSTON CHURCHILLと「印された形」は、チャーチルを表現してはいないであろう。今日ほとんどどんな書物にでも、この印刷された形が出てくればチャーチルを表現するにもかかわらず、そうなのである。(『理性・真理・歴史』、p. 1f.)  ここからパトナムは表現に必要なのは私たちの意図なのか、心的イメージもまた蟻の絵(文字)と同じく、何ものも指示しえないのではないか、云々という議論を展開します。  「ブッダの教えは虫の文字の類ではない。そこには確かなブッダの意図があるのだ」と語る仏教徒も、パトナムに言わせれば、「意味の心像説」という呪縛の中にあるということになるのかもしれません。  ともあれ、自分の博士論文が「虫の文字」(本人分かってないけど、偶然あたってた!)にでもなってくれれば幸いですが、どうなることやら。 

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