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もりやま しんや

護山 真也

哲学・芸術論 教授

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第一回信州大学哲学懇話会を終えて

 第一回信州大学哲学懇話会が盛況のうちに終わりました。ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。

 

 懇話会に先立つシンポジウムでは、「今、哲学すること」というテーマに関して、小宮山元学長より提題がなされ、私もパネリストの一人としてその提題に対する回答を行う役目を授かりました。

 

 私の理解では、提題のポイントは二つありました。一つは、信州大学において、今、求められる哲学教育のあり方、そしてもう一つは、アカデミズムの世界を超えて、広く一般市民に伝えられるべき哲学のあり方です。

 

 第一の点に対しては、現時点での授業の概観とその狙いを述べることで答えになるでしょう。

 

 現在、学部では東洋思想概論、サンスクリット文法、原書講読などの授業を担当していますが、これらの授業を通して、私が学生の皆さんに伝えたいと思っていることは、二つあります。それは、(1) 文献学の重要性と (2) 翻訳の際に意識されるべき比較思想の営みです。

 

 文献学とは、テキストの批判的校訂(critical edition)に結実されます。インド哲学の分野では、主な研究者は各自が専門とするテキストの批判的校訂の作業を着々と進めています。宮元啓一氏は、この状況を「滑走路を作ること」に譬え、その目的は、「飛行機を飛ばすこと」、つまり、思想そのものの研究にあると述べています。

 

 それは一面においてまったく正しい指摘なのですが、「滑走路を作ること」は、思想そのものの理解なしには不可能でしょう。複数の写本から原テキストを復元する試みは、絵画などの修復作業に似ています。テキストが書かれた当時の言語的・思想史的・文化的状況の理解に比例して、校訂の精度は高まっていくのです。

 

 その意味で、批判的校訂とは、校訂者の主観に依拠していいます。このような文献学の宿命を確認しつつ、原書講読の授業においては、できるだけ異読の価値を検討しながら、「テキスト」が生成する場面を伝えたいと考えています。それこそが、テキストの重層性・多面性を考えぬく知性を育てることになると、私は信じているからです。

 

 一方、テキストの翻訳という場面においては、また別種の知性が必要とされます。サンスクリットの様々な術語を日本語に置き換える際、私たちは、否応なく西洋哲学に固有の術語と出会います。「知覚」「本質」「普遍」「認識対象」など、伝統的な漢訳ならば「現量」「自性」「共相」「所縁」などと訳されてきたものです。

 

 現代では、後者の訳語はほとんど理解されえないと思います。では、前者の訳語ならば問題ないのか、と言えば、これらが西洋哲学の長い伝統の中で独自の意味合いをもっていることに無自覚なまま、これらの訳語を採用することは危険です。つまり、一つのサンスクリットの術語を日本語に置き換えるということは、それ自体で、すでにかなりスリリングな比較思想的な営みになるということです。

 

 『意識と本質』の「後記」で井筒俊彦が書いたように、「意識の表層と深層とを二つの軸として、西洋と東洋とが微妙な形で融合している」のが、日本人の実存だとすれば、翻訳という知的作業は、まさにその実存を反省し続ける作業だと言えるでしょう。

 

 さて、提言の第二点である、「アカデミズムの外部においてインド哲学・仏教学はどのような役割を果たしうるのか」については、シンポジウムの中で十分な答えを与えることができませんでした。

 

 市民の間で求められる「哲学」とは、何らかの形で「人生の指針」「様々な不安・苦悩に対する処方箋」のようなものではないかと推察します。

 

 仏教を含むインド哲学は、解脱を目的としたものであり、宗教的な要素と不可分のものです。そのことを考慮に入れれれば、インド哲学における「宗教の価値」を考えなおし、古代ギリシアにおける叡智の実践などとも重ね合わせながら、その実践論を現代の文脈で読みなおすことが、この点に対する答えとなるのだと考えていますが、まだまだ思索の途上にあります。

 

 以上、シンポジウムを振り返りつつ、日頃の授業で何を考えているのかをつらつらと書いてみました。学生の皆さんの参考になれば幸いです。

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