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いいおか しろう

飯岡 詩朗

英米文学 准教授

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エリア・カザンの『ピンキー』について

 先頃、WOWOWでエリア(イーリア)・カザン特集が組まれ、これまではアメリカで販売されているDVD等でしか見ることの出来なかった『ピンキー』(Pinky, 1949) が日本語字幕付で放映されたので、それを記念して(?)昔書いた「パッシング映画」に関する論文で『ピンキー』に触れているところを抜粋でアップします。(現物は比較的目に触れにくいようなので。)出典は、『立教アメリカン・スタディーズ』第21号(1999)です。

 冒頭で補足と、数カ所誤字・誤記を訂正しましたが、それ以外は初出のままです。出典などの註は省略していますので、関心のある方は現物をご確認下さい。

 

* * *

 

 [『境界の消滅』(Lost Boundaries)]同じく1949年に公開されたエリア・カザン監督の『ピンキー』 は、いかにして白人と黒人が、「白い黒人」であるピンキー(ジーン・クレイン)に、パッシングを「ふり/演技/擬装」と同種の行為として認識させ、彼女に「黒人」として生きる道をみずから選択させるかを描いている。

 

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 物語は北部でパット(パトリシア)という名で白人としてパスしてきた看護婦ピンキーの南部への帰郷からはじまる。彼女は白人としてパスし続けることにおそらく精神的な限界を感じ、恋人の医師トム(ウィリアム・ランディガン)の前から姿を消し、祖母ダイシーのもとに帰って来る(もちろん、自分の出自が明らかな故郷で、自分が白人としてパスして生きていくことなどできないことは彼女にはわかっている)。トムとの関係において、自分が「黒人」であるという事実/現実がいかにピンキーを悩ませていたかは、帰郷したその日、眠りについた彼女がおそらくトムに捨てられる夢を見、うなされて目を覚ましたとき、窓から差し込む月明かりに照らされ、彼女の顔がちょうど半分ずつ白=光と黒=影にくっきりと分けられたショットで表される[図版25]。こうしたあからさまに象徴的なショットが映画の冒頭部分に置かれたのは、きわめて白人らしい白人女優によって演じられているピンキーの定義上の「黒さ」を視覚的に表現し、彼女にとってのその「黒さ」がどれほど深刻なものであるかを観客に納得させるためだろう。実際、ダイシー(彼女もはじめ孫娘を認知できない)がピンキーを抱きしめても、ピンキーが「黒人」であるという事実/現実は、視覚的には納得できることではない。

 あまりに白人らしい白人女優が演じているため、視覚上は、ピンキーの白人としてのパッシングを、白人の「ふり」と同種の行為として観客に納得させるのは困難である(白人の女優である彼女は「白人」の「ふり/演技」をする必要はない)。物語上も彼女が北部で白人としてパスして生きることになったのは、彼女の意志によるのではなく偶然によると説明される。

 

PINKY: I didn’t mean to, Granny.  It just happened.

DICEY: That’s a sin before God, and you know it.

PINKY: It was a conductor on the train.  He put me back in another car — the white one.

DICEY: But he knew who you were.  I put you where you belonged.

PINKY: No.  It was after that, when they changed conductors.

DICEY: Then why you ain’t tell the new conductor? 

PINKY: I don’t know.  I was only a child.

 

これはピンキーの帰宅をダイシーが喜んで迎えたすぐ後の会話なのだが、ここではすでにピンキーに「罪」の意識を抱かせる「論理」が導入されている。ピンキーは白人の乗務員が勝手に自分を白人だと思い込んだというのだが、ダイシーは、なぜその誤った思い込みを正そうとしないのか、正さなければそれは罪だといい、ピンキーを神の名において叱責する。この「本当のことtruth」をいわないことは「罪」だという「論理」は、その「本当のこと」を構成する「論理」のあやしさは決して問われることなく、小さな差異を含みながら反復され、ピンキーを追い詰めてゆく。

 はじめピンキーはこの「論理」に抵抗し、ふたたび北部に戻り白人としてパスしようと決意する。しかもそのパッシングの決意は、帰郷してすぐ彼女が体験する二つの事件によっても正当化される。まず彼女は祖母のお金をだまし取った黒い肌の黒人ジェイクとその妻の三人で言い争いをしているところを白人警官によって仲裁され、「白人」として擁護されるが、彼女が「黒人」だということを知ったとたん警官は態度を急変させ、ジェイクらとともに警察署に彼女を連行し、取り調べをする。次に、同じ日の夜、くやしい気分を少しでも晴らそうと散歩に出た彼女は、車に乗った二人の白人男性から、夜の一人歩きは危ないので送っていってやると声をかけられる。ピンキーにその申し出を断わられた二人は、彼女が近くに住む「黒人」だと察知し、彼女をレイプしようとする。なんとか二人をふりはらい、家へと逃げ帰ったピンキーはすぐにも荷造りをはじめる。「他にどこも行くところがなくて帰ってきた」とはいえ、彼女は「もうひとつ別の生き方があることを知っている」し、「人間らしく扱われた」経験もあるのだ。 彼女のパッシングの決意はこうした二つのいまわしい体験によって正当化される。

 そんなピンキーの決意を砕くのはやはりダイシーである。彼女は孫娘に、かつては自分の主人であり、いまは「友人」の白人女性ミス・エム──彼女は心臓病で寝込んでいる──の看護をするよういいつける。少女の頃にミス・エムに受けた仕打ちを忘れずにいるピンキーはこのいいつけをはじめ拒否する。 しかし、ダイシーに、ミス・エムには以前自分が肺炎で倒れて寝込んだとき熱心に看病してもらったことへの恩があるいわれると、ピンキーは、自分が看護学校に通うために洗濯婦として身を粉にして働き仕送りを続けてくれた祖母への恩返しとしてミス・エムの看護を引き受け、 北部へ帰るのをしばらく先延ばしにする。そんな折、彼女を訪ねてトムがやって来る。

 

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 トムの訪問に、はじめピンキーは戸惑うが、洗濯婦として働く年老いた肌の黒い黒人女性が祖母であると認めることで間接的に自分が「黒人」だということをトムに告げる。このとき、ピンキーはトムの影に包まれ、彼女の顔は黒く塗りつぶされる[図版26]。この象徴的なショットが暗示するように、ピンキーが「黒人」であるという事実/現実を、「闇/影」として彼女自身に認識させるのはトムであり、同時にその事実/現実は、もちろん彼にとっても「闇/影」であり、「秘密」にしておかなければならないことなのだ。実際、後に彼は「黒人」と交際していることが知れ、勤め先の病院を追われることになるだろう。

 

 トムはピンキーが「黒人」だという事実/現実に愕然とするが、自分は医師であり科学者であるから、優秀な人種とそうでない人種が存在するといった神話を信じてはいないし、黒人への偏見もないといい、 その「事実」は二人だけの「秘密」にして(“It’ll be our secret, nobody else will ever know.”)結婚し、ボストンでいままで通り白人として生きていこうともちかける。 こうしてトムは、言葉によってもピンキーに「黒人」だという事実/現実を「秘密」として認識させ、さらにはそれを守り通すこと、白人としてパスすることを、実質的に結婚の条件として提示することによって、かえってパスすることへの「罪」の意識を彼女に植えつける。彼の言葉は、おそらく本来の意図に反して、以下の会話でミス・エムがに発した言葉と同様に、ピンキーからパッシングという選択肢を奪い去る。

 

MISS EM: [. . .] I prefer the truth.  [. . .] I’ll be dead soon.  And you’ll be free to go back North again.  Going to give up your nursing when you get back up yonder?

PINKY: Nursing’s my profession.  In certain place, a nurse is treated with respect.

MISS EM: Nobody deserves respect as long as she pretends she’s something she isn’t.

PINKY: How I live my life is my own business, Miss Em. 

 

「本当のこと」を好むというミス・エムによるパッシングを否定する「論理」は、ダイシーのそれと同じである。これにより、ダイシーが白人=ミス・エムの「論理」を内面化していることが明らかになる。ミス・エムのいう「本当のこと」が、白人が立てた「基準standards」にもとづくものでしかないことがピンキーにはわかっているが、「自分自身であれbe yourself」というミス・エムのメッセージは、「秘密を守りパスしつづけろ」というトムのメッセージよりも彼女の心を打つ。物語の最後でピンキーが「黒人」として生きることを引き受ける理由のひとつは、トムが彼女に植えつけた「罪」の意識と、パスをすること(=「黒人」であるという事実/現実を「秘密」にすべきものして認識し、その「秘密」を守りつづけること)を人から強いられることへの反動からに違いなく、それを彼女自身の自発的で勇敢な決断とみなしたり、彼女の「黒人」としての「目覚め」とみなしたりするだけでは不十分である。

 

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 かりに黒人としての「誇り」をピンキーが最後に抱くのだとしても、それは、彼女が南部の白人から「黒人」として定義され、差別されることと密接に結びついている。ミス・エムがなぜか遺産の相続人をピンキーに指定して亡くなる──しかしその理由は観客に十分に納得できるようには示されない──と、ミス・エムの従弟の妻メルヴァはピンキーに不当ないいがかりをつけ、訴訟をおこす。メルヴァは、ずるがしこい「黒人」看護婦  が立場を利用してミス・エムを騙し、自分にとって都合がいいように遺言を書かせた、と主張する。遺産を相続したいわけではなく、その嘘に我慢のならないピンキーは「本当のこと」を明らかにするために法廷で闘うことを決意する。そして、裁判のためにお金が必要になったピンキーは、ミス・エムが亡くなってからというものすっかり元気を失くした祖母に成り代わり、洗濯婦として働きはじめる[図版27, 28]。懸命に洗濯物の白くしようとするピンキーは、自分の中の黒人の血は、洗濯物の汚れを落とすのとは違い、決して洗い流すことができないことを痛感するだろう。 洗濯の場面の直後、黒人の洗濯婦と同じように篭に入れた洗濯物を抱えたピンキーは、町の掲示板で告知される裁判日程に記された自分の名前の後ろに「黒人NEGRO」という但し書きがあるのを見つける[図版29, 30]。

 

 いうまでもなく、「ミス・エムが自分の意志でピンキーに遺産を譲ると書いた」という「本当のこと」と、「ピンキーは「黒人」だ」という「本当のこと」、この二つの「本当のこと」はまったく別のものである。前者の「本当のこと」は「事実」と同義だが、後者は「事実」というよりもむしろ「現実」と同義である。にもかかわらず、ピンキーはこの二つの「本当のこと」を混同する。そして、法廷で嘘と闘うように、白人としてパスするという「嘘」をもう行わないと決意する。

ピンキーが勝訴すると、裁判を見守っていたトムは、遺言が嘘ではないことは証明されたのだから、早くこの町から出て白人として生きていこう、というが、彼女はその申し出を斥ける。

 

PINKY: I can’t go with you.  I’m sick of lying, Tom.  We wouldn’t be happy, either of us.

TOM:  What do you expect to do, crawl into a closet and live there the rest of your life?  Close the door and lock it, lock everything?  Pat, look at me.  Look at me.  Will you come to your senses?  You’ve got to get away from it.

PINKY: I don’t want to get away from anything.  I’m a Negro.  I can’t forget it.  I can’t deny it.  I can’t pretend to be anything else, and I don’t want to be anything else.

 

 ピンキーは差別を通して自分が「黒人」であること強く意識させられ、「黒人」に「なる」ことと、トムと別れることとを同時に決意し、 ミス・エムの遺産を相続して黒人のための病院と看護学校を設立する。 もちろん、自発的に「黒人」として生きることを引き受けたわけではないからといって、また、差別を通して「黒人」に「なる」決意をしたからといって、彼女の行為の価値が下落するわけではまったくない。しかし、彼女は白人と黒人の混血であり、そうである以上、彼女が自分を黒人に自己同定する (identify) 理論的な必然性はない。白人の「論理」から離れ、含まれる血の割合だけでいえば、彼女はおそらく白人に自己同定してもおかしくはないのであって、 「黒人」に「なる」ということが、同時に、白人としての自分の出自を捨てること、否定することをも意味してしまうのは確かである。

 

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 『ピンキー』はこれまでみたパッシング映画と異なり、「白い黒人」と白人の性的関係を具体的に描き(映像化し)[図版31]、「異人種混淆(黒人と白人の性的関係)は禁じられる」という、当時のハリウッド映画を規制していた映画製作倫理規定、いわゆるヘイズ・コード  に違反してハリウッド映画に異人種間恋愛を導入し、パッシング映画を改変したが、その違反はコンスタティヴな(物語内容の)レヴェルにおいてのことにすぎない(しかも二人は最後には決別する)。「白い黒人」が白人によって演じられている以上、ピンキー(クレイン)とトム(ランディガン)の関係はパフォーマティヴには決して「黒人と白人の性的関係」にはならないからだ。 また、『ピンキー』の物語は「黒人」として生きる「白い黒人」を肯定的には描いているが、そう描いているがゆえになおさら、「白い黒人」を白人が演じているという事実はこの映画の決定的な弱点となるだろう。物語としての『ピンキー』が語るユートピア的なヴィジョン(黒人が自力で自分たちの人種を向上させる [uplift the race])は、映画としての『ピンキー』が行うことと完全に齟齬をきたしているのだ。

 

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