教員紹介

はやさか としひろ

早坂 俊廣

哲学・芸術論 教授

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基礎人間学講座

昔、「基礎人間学」という名の講座があった

 

★何だか大げさなタイトルですが、「哲学・思想論」講座の前身である「基礎人間学」講座のHPに載せていた文章を転載します。かなり以前の文章ですが、追悼の意をこめて(?)、そのまま掲載します。★

 

1.私はなぜ中国哲学を勉強しようと思ったのか? 

 

大学2年生の時に、2年間つき合っていた彼女からいきなり別れを告げられました。他に好きな人ができたとのことでした。ちょうどその頃、大学の演習で 『孟子集註』という本を読んでいたのですが(共通一次試験を失敗したため、やむなく中国哲学専攻に入っていたのです)、そこで孟子は、悲しいぐらいに力強く「人間の本性はだ!」なんて言っていました。『孟子集註』の作者である朱熹は「その通り! だって、人間には天理が備わっているんだから。」などと能書きを垂れていました。その頃の自分の気分と見事なまでに正反対でした。『孟子』と並んで「四書」に入れられている中庸の翻訳を読んでみたら、誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。ともありました。それまでの自己の世界がガラガラと音をたてて崩れていく中、「何言ってやがるんだ、コイツら・・・」と感じたのが、私の中国哲学への第一歩だったように思います。

 

 

2.私はなぜ今でも中国哲学を勉強しているのか?

 

「何言ってやがるんだ」という点で言えば、何を言っているのか未だによく分かっていません。失恋の傷も、中国哲学の世界が癒やしてくれたわけではありません(失恋の傷を癒やしてくれるのは「時間」だけです)。でも、人と人との間で生きていく上での様々な示唆を、中国の伝統思想から与えてもらったことは確かです(だから、「やむなく」入った中国哲学の世界が「やめられなく」なってしまったのです)。「中国の伝統思想」、あるいは「中国の古典」というものは、現代の日本に生きる私には「遠い他者」です。何重にもその他者性は折り重なっています。「だから理解できない」部分と「なのに納得できる」部分と―このどちらもが、今ここにいる私を揺さぶります。今ここにいる私のあり方を問いただします。そのとき感じる快楽こそ、私が今まで飽きることなく中国哲学の勉強を続けてきた動機であると思います。
 

 

3.「中国哲学」という呼び名についての補足

 

以上のような、非常に個人的な 理由でちまちまと研究活動を続けてきた私には、中国哲学について語る資格は恐らくありません。でも最後に、中国哲学という呼び名に対する私の複雑な思いを述べておきたいと思います。「哲学は哲学なのであって、<中国>という限定をつけるのはおかしい。」、「哲学とは西洋のものである。中国に哲学はない。」…などなどの様々な理由で、「中国哲学」という呼び名が廃棄されつつあるように見受けられます。恐らくどの意見にも、いかほどかの真理といかほどかの誤解とが含まれているのでしょう。でも、私はここでも、きわめて個人的な理由で中国哲学という呼び名を継承していきたいと思います。個人的な理由とは、つまり中国はおもしろいという私個人の実感です。上で「他者」と書きましたが、この「他者」は私にとってとても「おもしろい」のです(「何言ってやがるんだ」というぼやきも含めて)。だから、この「他者」に敬意を表して、 私は「中国」という名称を「哲学」の上に冠することにしています。私は、「中国にだけある哲学」を研究しているのではありません。中国というおもしろいフィールドで、哲学の楽しみを味わっているのです。この 面白さと楽しさを、少しでも学生諸君に伝えられたら…と思ってやみません。

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