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信州大学人文学部の沿革

1919(大正 8年) (旧制)松本高等学校設立
1949(昭和24年) 信州大学(新制)発足。文理学部文科
1966(昭和41年) 人文学部文学科発足。文理学部を人文学部と理学部に改組
1978(昭和53年) 人文学部を人文学部と経済学部に改組
1982(昭和57年) 大学院人文科学研究科(修士課程)設置
1994(平成 6年) 3年次編入制度開始
1995(平成 7年) 2学科制発足
1999(平成11年) 創立50周年
2004(平成16年) 信州大学、独立行政法人となる。人文学部、長野県穂高町(現安曇野市)と連携協定を結ぶ
2007(平成16年) 人文学部、講座組織及びカリキュラム改革を実施。人文学部、長野県青木村と提携協定を結ぶ

人文学部の歩み

本学部は、大正8年創立の松本高等学校を受け継いで、昭和24年信州大学文理学部として発足し、昭和41年理学部を、さらに昭和53年経済学部を分離独立させ、人文学部として成立しました。さらに平成7年4月1日から人文学部は人間情報学科と文化コミュニケーション学科の2学科に改組されました。本学部は世界の急激な変化と高度に発展した産業社会の下で、人間はいかにあるべきかを、哲学・歴史・文化・言語・文学・社会などの諸分野から究明する独自の学風を築いてきました。

信州大学人文学部の歴史は、大正8年の旧制「松本高等学校」に始まります。 その信州大学人文学部の歩みを、記念誌編纂専門部門会編(1999)『信州大学創立50周年記念誌』pp.38-39(執筆:赤松常弘)より、一部抜粋転載して紹介しましょう。

松高時代

本学部は、1919(大正8)年に創設された松本高等学校(旧制、以下松高と略記)に始まる。当時は全国に高等学校は8校しかなく、長野県、松本市をあげて誘致運動をし、松本市が敷地2万坪、約20万円を負担した成果であった。
当初松本中学に仮住まいして出発したが、翌1920年、現在の「県(あがた)の森文化会館」となっている新校舎が完成した。道路に面し、はじめは校門さえなかったこの建築様式は、大正期の学校建築を代表するきわめてユニークな文化財といえよう。

学生定員は文甲 文乙、理甲、理乙各40名の計160名で、入学者のほば半分は長野県出身者で、そのまた半分は松本地方出身者だった。それまでは東京、仙台、金沢などの高等学校へ行くしかなく、それも長野県全体で十数名だったのだから、松高がつくられたことは長野県の教育、文化を大きく発展させることになった。松高からは多くの優秀な人材が育ち、音楽部、弁論部、文芸部や山岳部、陸上競技部などの活動は県民に大きな寄与をなした。他方、昭和の暗い時代にあって五次にわたる、いわゆる「松高事件」がおこっている。

昭和15年ごろから戦時色が強まり、寄宿舎の自治制が廃止され、戦争末期には修学年限の短縮、勤労動員が行われ、昭和20年に入ると勤労動員で校舎に学生が全くいなくなるという事態になった。

敗戦は松高にも大きな変化をもたらした。授業再開修業年限の復活、軍学生の受け入れ、などが行われた。さらに教育制度を根本的に改革する6・3・3・4制男女共学が実施されることになり、松高は新制大学に改組されることになった。

文理学部時代

昭和24年6月、松高は信州大学文理学部となり、他に教育、医、工、農、繊維学部の6学部を擁する信州大学が発足した。文理学部は、人文科学科(定員70名)、社会科学科(定員20名)、自然科学科(定員70名)の3学科からなり、人文学部の前身たる人文科学科は、哲学及び倫理学、心理学、日本史学、東洋史学及び西洋史学、国文学及び中国文学、国語学、英文学、英語学、ドイツ文学、ドイツ語学の学科目をもっていた。
旧制大学への準備コースとしての松高の接業形態をそのまま残して、外国語分野の比重が高い構成となっている。

新制の大学は女性にも入学資格を認めていたが、昭和24年には女性入学者はゼロ、昭和25年に6名(人文3、社会1、自然2)の女性入学者があり、それ以後漸増していくことになる(ちなみに松高最後の昭和23年度には女性の入学資格を認めて1名が入学している)。

人文学部への改組

昭和41年4月、文理学部が改組され、人文学部と理学部になり、また一般教育を担当する教養部が設置された。人文学部は文学科と経済学科からなり、文学科は、教官19名、学生60名の定員であった。

昭和44年6月、その頃全国の大学で吹き荒れていた所謂大学紛争の嵐が人文学部にも及び、講堂が封鎖され、所謂大衆団交が繰り返された。一時は学部全体が占拠され、その対策のための臨時教授会は学外の旧学長官舎や某教授宅などで連日のように開かれ、議論は深更にまで及んだ。数ケ月後紛争は終息し、教育研究活動は正常に復したが、この教訓がすぐに生かされたとは言い難い。

キャンパスの移転

昭和48年4月に人文学部の新校舎が旭町キャンパスに竣工し、県キャンパスから移転した新校舎に移っても文学科の構成は文理学部時代とほとんど同じで、これを拡充し、松高の枠組みから飛躍することが求められていた。
コース制への改組:昭和51年になって改革構想が実現し文学科は基礎文化コース、西洋文化コース、東洋文化コースの3コースからなる人文学科に改組された。各コースのなかに広域履修と専門履修の2つの履修タイプを設け、学生がある専門分野を重点的に深く履修することも、いくつかの専門分野を横断して総合的に履修することもできるようにした。

この改組で人文学科は人文学、人文科学の永い伝統を踏まえて教育研究を行うとともに、時代の変化、社会のニーズの多様化に応えて総合性、学際性を重視した教育を行うことを目標とした教育体制の再編成を一応は実現したが、さらに人文学的研究教育のあり方をたえず問い直しながら、新時代の人文学部教育を模索しつづけていった。
複合学科目の分離、新学科目の増設もつぎつぎにおこなわれた。昭和52年社会学の増設、昭和53年比較文化論の増設、昭和54年国文学と中国文学の分離及び比較文学の増設、昭和55年比較哲学の増設がおこなわれた。「比較」を冠する学科目の増設に特色があり、そこに「総合化」への志向が現れている。

経済学部の分離

この間、昭和53年6月、人文学部の経済学科を母体に経済学部が設置され、人文学部から分離独立した。

大学院の設置

人文学部を卒業してさらに勉学を続けたい学生のために、昭和47年から人文学専攻科が置かれていたが、学部の改組充実を基礎に、昭和57年大学院人文科学研究科(修士課程)が設置された。地域文化専攻と言語文化専攻の2専攻からなリ、学生定員は各専攻5名。

大講座制への改組

平成4年4月、それまでの小講座制から大講座制への改組がおこなわれた。教授1名、助教授1名からなる小講座は従来の専門分化した各分野がそれぞれ独立に教育研究を行う体制に対応していたが人文学の諸分野が相互に柔軟に交流し、総合性、学際性を重視する教育研究を行うためには、いくつかの専門分野をひとつに括ったより広い教育組織が必要になり、大講座制への改組が行われた。
それまでの16小講座(哲学、比較哲学、心理学、社会学、比較文化論、英米文学、英語学、ドイツ文学、ドイツ語学、比較文学、西洋史学、国文学、国語学、中国文学、日本史学、東洋史学)が基礎人間学講座、行動科学講座1地域文化変動論講座、言語コミュニケーション研究講座、比較言語文化研究講座の5 大講座に再編成され、翌平成5年文化情報論講座が新設された。
それに伴い、学生の履修コースもそれまでの基礎文化コース、西洋文化コース、東洋文化コースの3コース制から、基礎人間学専攻コース、行動科学専攻コース、地域文化変動論専攻コース、文化情報論専攻コース、言語コミュニケーション専攻コース、比較言語文化専攻コース、東洋言語文化専攻コース、西洋言語文化専攻コースの8専攻コースに再編成された。 文化情報論講座、文化情報論専攻コースは人類の文化を情報という観点からとらえ直し研究教育する事で到来する情報化社会で活躍できる人材の育成を目指して新設されたものである。

教養部の廃止と2学科制への改組

平成7年、信州大学全体の教育改革の一環として教養部が廃止され、各学部の改組が行われたが、本学部もそれまでの人文学科1学科から人間情報学科と文化コミュニケーション学科の2学科への改組を行った。教員組織は6大講座から9大講座に拡充し、学生の履修コースは12専攻コースと充実した。

すなわち、人間情報学科は基礎人間学講座、行動科学講座、文化情報論講座、地域文化変動論講座、及び文化生態学講座(地域文化変動論講座から分離独立)の5大講座からなリ、文化コミュニケーション学科は言語コミュニケーション講座、日本言語文化講座(比較言語文化講座から分離独立)、比較言語文化講座、及び新設の非言語コミュニケーション講座の4大講座からなる。

学生の履修コースは、人間情報学科は基礎人間学専攻コース、行動科学専攻コース、文化情報論専攻コース、地域文化変動論専攻コース、文化生態学専攻コースの5コースからなり、文化コミュニケーション学科は言語コミュニケーション専攻コース、日本言語文化専攻コース、比較言語文化専攻コース、アジア言語文化専攻コース、ヨーロッパ言語文化専攻コース、英米言語文化専攻コース、非言語コミュニケーション専攻コースの7コースからなる。