【英語学系】よくある質問

【英語学ゼミ】FAQ: 英語学で何が学べるんですか?(!長文)

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英語学を勉強してます、というと「ふーん」と一応納得する人と「で、どんな勉強すんの?」と納得しない人がいる。この2種類の人たちのうち、だいたいにおいて後者の方が正しい態度だ・・・・・・たぶん。

 

そして、ここ信大人文学部で英語学を専攻しようと思う人は(本学部では2年生に上がるときに専攻を決める)だいたいにおいて前者の部類に入る人たちである(そしてだいたいにおいて、勉強し始めてから一旦たまげる、か失望する・・・(苦笑))。


大学で学ぶ学問の中でも、英語学ほどわかりそうでわかりにくい分野も少ないかもしれない(どの分野も思ってたりして)。看板はいたってわかりやすい。なにせ中学からずっと勉強してきた(させられてきた?)英語である。その英語までついてるんだから、きっと高度で難解な英語を勉強するんだろうとか、もっと英語が上手になるようにするんだろうとか、思ったりするのである。


これらの予想はとりあえずハズレである。思い切ってぜーんぜん違うと言ってもよい。


どうちがうか。いくつかの違い方(?)がある。



まず一つ目の違い方。


中学、高校、そして大学の一般教育課程で勉強する英語は、要するに英語がよりよくできるようになるためのものだ。ところが英語学を勉強しても英語はできるようにならないと考えた方が無難なのである(直接には)。英語学はある面でたしかに「英語」という言語を研究する学問である(そんな当たり前のこと!というなかれ。実はそうではない英語学もある)。しかし、言語として英語を研究することは必ずしも英語の上達にはつながらない。英語「について」学ぶことと、英語「を」学ぶことは、別のことなのである。一時代前は英語が話せないことをむしろ誇らしげにいう英語学者もいたらしい。ま、そりゃちょっと極端だけど、考えてみたらそうだね。一流の英語学者より多くの英語のネイティブスピーカーの方がだいたい英語が上手に決まってるからね。一流の日本語学者より日本語が上手な日本人もたくさんいそうでしょ?

というわけで、英語学が目指すものは英語が上手になることではない。が、やはり英語が上手であるにこしたことはない。英語がよくできることが英語学の役にたつことは十分にありうる。だからやっぱり英語の訓練もそういう意味では必要ではある。



さてもう一つの違い方。


言語学という学問があるのはご存じかな?これもわかるようでわからないという意味では英語学にひけをとらないかもしれない。とにかくことばっていうのは健常なある程度以上の年齢の人なら誰でも話せるものだからね。いってみれば当たり前のことを扱うわけだ。したがってそれを相手にする学問だから、どうしても「説明」の学問になってくる。日本で育った日本人が日本語を話せても何の自慢にもならない。フランスで育ったフランス人のフランス語も同様(「うまく」話せるとなると別だけど)。英語学が英語を上手にするための学問じゃないように、言語学も言語をうまく話せるようにするためのものじゃない。言語というものがどういう成り立ちをしているのか、どういう構造になっているのか、そういうことをいかにうまく「説明」できるが問題の学問なわけだ。



さてその説明の仕方についても大ざっぱにいって2つの考え方がありうる。それは、ある言語、たとえば日本語とか英語とかに限って当てはまるような説明を試みようとするやり方。もう一つは、どんな言語にも当てはまるような、要するにより一般的で普遍的な説明を求めるやり方だ。でもすぐ考えてわかるように一般的で普遍的な言語なんてものは存在しない(少なくともふつうに見たり聞いたりするものとしては)。「言語」という抽象的な概念は概念としては成り立つけれど、必ず「何々語」としてしか存在しないよね。だから「普遍」を求めるやり方でもとりあえず「個別」から入っていかざるをえない。この「普遍」と「個別」という区別は、やり方(英語学の中にもいろんな分野がある)によっては理念として非常に強調される場合もあるけれど、現実にはどちらか片方だけを考えるということは無理か無意味だろう。



それから、もう一つの説明の仕方の違いとして、言語だけを見るか、言語以外のものも重要だと考えてみようとするか、という違いもある。前者比較的新しい考え方だが、後者長い長い伝統がある。前者では言語そのものがどういう成り立ちをしているか、どういう構造になっているか、なんてことを考える。一方後者では、例えば言語がどのように使われるか、つまり、古い文献の中で誰がどのように考えてどんな発音をしていた人がなんのために英雄伝説法律文書年代記ロマンス詩などを書いたのか、なんてことを考えたりもするし、現代の言語の場合は、文字として書かれたモノの他に、話し手とか聞き手とか場面状況とかもっと大きく社会とかがどう言語と関わってくるかということを考える。ここでももちろんさっきの「普遍」と「個別」という視点は生きている。

だいたい言語学の基本的な考え方はこんなところでしょう。で、前置きが長くなってしまったが、英語学とはようするに言語学なのである。

英語学とは、二つの意味で言語学なのである。すなわち「英語」という「個別」を強く意識したアメリカ流の言語学(English Linguisticsと呼ぶ)と、英語文献の長い歴史の中から何を現代人は読みとっていくのか、という「英語文献学」(English Philologyという)としての意味があるのである。

「言語学としての英語研究=英語学」という図式はなんとなくわかってもらえると思うが、「アメリカ流の」言語学っていうのはちょっとへんな感じがするかもしれないね。でも言語学にもある種の流派というか、ちょっと難しく言うと思想的なバックグラウンドの違いがあって、やり方、説明の仕方が違うのである。その意味での英語学=言語学(English Linguistics)は英米語中心主義で論じられてきたやり方の言語学ということができる。これはだいたいアメリカでの"Linguistics"すなわち「言語学」に等しい。だから、アメリカ流の言語学のやり方で日本語を説明するというやり方がありうるわけだね。日本英語学会という学会があるが、実際、そこでの研究発表のなかで日本語を扱っている研究はそう珍しくはない。その場合は、英語という言語の特徴を研究してきたやり方で日本語を扱うわけで、かつては長さを測る物差しで自分の体重を量ろうとするような無理が生じないわけでもなかった。最近はさすがにそういうのは減ってきているけれど、研究論文などで、先輩諸氏のものにそういうものを見つけることもできるんだ。

その一方で、英語文献学は、歴史的に過去の時代に書かれた文献を、英語を話す人々の歴史と共に読みふけることから始まり、言語学的な知識に基づいた言語の解読を究めることが目標になる。もちろん、過去の遺産を解読することは、直接現在の状況を理解し、未来に繋げる意味があることを自覚しなければ意味がないだろう。面白いことに、英語をめぐる環境と日本語をめぐる環境は対応関係を探すことができるくらいよく似ている。だから日本人が英語の歴史を勉強すると、翻って自分たちの言葉、日本語の歴史に対する興味、学究的な方法論を探るきっかけになったりもするんだ。

というわけで、ここまでの話をまとめてみると、英語学ってのは英語ができるようにする学問では(直接は)ないってこと、英語がどんな言語かってことを考える言語学だったり、人間が何をどう考えて英語を使うかを考えたり、英語の今を理解するためにも古い言語の層を発掘作業する考古学者みたいなこともするんだ。場合によっては、英語の古層に眠る北欧語やフランス語、ラテン語といった外国語を掘り当てるスリリングな体験を味わうこともできる。

要は、英語という言語をめぐって、いろいろなことを知ったり考えたりしながら、自分の興味を拡げ深めること。それが英語学というものなんだね。

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